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もう納豆について語るくらいしか、僕に出来ることはない…などと思っていたが、もうそんなんは沢山。
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結局のところ、本当上手く説明出来ないけれど、モヤっとした「コレだよやっぱり!」みたいなところを信じて突っ込むことにしか、幸せの糸口が無い気がする、本来的な価値での。

俺は今も言い訳ばかり。いや、言い訳どころか尻拭いの日々かもね、勿論過去の自分の。

安いウイスキーを何故かロックで飲んで、トイレに行くのがダルいからベランダの鉢の中に立ち小便をする。大学生の頃から何も変わっていない。あの当時なら可愛気で許されることを、おじさんになってもまだしてる。

結局変わってないってことだ。

あの頃も今日も、自分的には何か詰んでるとか手遅れとかの感覚を基に勝手に絶望して、やさぐれているだけ。

でも、それって結局のところ何をどうすれば良いかってことを示してもいるよな、相変わらず。


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小さな事を喜べたり、ありがたいと思える感性の中にこそ幸せが実は隠れている。

色んな当たり前の中に幸せの胞子が沢山詰まっていて、それを自分の受容体に取り込むのか、はたまたそれを破棄するのかは自分次第。

何はなくともと言える幸せ。これで良い部分もきっと沢山ある。
結局、最期の姿は皆似たり寄ったりで、必ず誰かの世話になる。どういう認知症を発症するかにもよるが、ボケる前の振る舞いや自律度とでも言ったら良いのか、そういうのは割と残る感じの印象。

子どもや兄弟、友達との関係が良好だった人は、面会者が絶えないが、そうではない人は誰からの便りもなくまさに姥捨山状態。例えば、同じ市内に子どもがいるにも関わらず、用が無い限り面会に来てもらえない者もいれば、ベトナムだかに駐在している娘が、時間を作っては、せっせと親に会いに来たりする。まぁそんなもんか。

一概には言えないが、結局積み上げてきたもの、あるいは目を背けたり上手くやれなかったものが最期に露呈するのが老後な気がする。

しかし、それ以上に思うことは、更に突き詰めた最期は皆一緒ってこと。

無い頭でも使えるうちに使わなきゃだし、脚が動いて転倒の心配が無いことが、どれだけ自由で貴重で、あらゆる可能性があることなのかを、もっとありがたがるべきだ。

しかし、ある種の美しさも老後にはある。

そりゃ自分も含めて不完全で取るに足らない人間が、80年だかそれ以上生き切った事実は、もうそれだけで美しくもある。

だから、結局生きるしかないし、生き切ることが全てか。その中で自分らしくもがいて天命を待って最後は死ぬだけさ。

を見据えて生きよう。

誰かの為に自分の命を使わないとやっぱりつまらない。

勿論、何をやったとしても結果的には誰かしらの何かにはなるだろう。

だから、何だって良いっちゃ良いんだろうけど、やっぱり主体性が大事。

つまり、暫定的にこうだって思えることに抗わないことをやるのが肝要。

面白いとか楽しいって、突き詰めたらそういうことじゃないかな。

もう無心になって昼夜を問わず寝食を忘れるようなそれが答え。

それがお金に直結するとかじゃなく、思うことをただやる喜びに価値を置くべきだ。

金を稼ぐ手段は無数にある。

恐れるな。自分の漠然とした何かかもしれないが、それとそれを出来る自分の姿を信じろ。
己を過信せず、極めて無力で無能な存在だと認識して、選択して集中だ。

それをしたところで、まぁ与えられたことすらロクに出来ない自分。そんな奴に何が出来るかって話だが。

それでもそんな自分を信じなきゃ何も始まらない。


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