もう納豆について語るくらいしか、僕に出来ることはない…などと思っていたが、もうそんなんは沢山。
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所詮、保たせようとする自分なんて嘘なんだから、なるべくやっぱり、そういう部分を軽くしていって、やがてはただ在る自分で居たい。
自分を許して人を許し、いつかみたいな、ただ無邪気に喜怒哀楽を体現していたインナーチャイルドにまた近づくのだ。 今は理性もあるし、多分、所謂、ジョーシキ的なことも一通り理解はしている(と思う) だけど、そんな理性化の過程で抑圧してしまった己の心臓を、もう一度、ただただ拍動させてみたいと思うのだ。 バカみたいな話だろう?でも、自分が本当に幸せに生き切るためには、絶対不可欠なことだと思っている。 PR
あらゆるはノイズだ。
自分の感覚を信じることをまず第一にしなきゃ、永久に自分を全うなど出来るものか。 多数派は正義でも何でもない。ただの平均値だ。そう、単なる一番デカイ母集団に過ぎない。 それでも人はやはり弱いから、どうしても易きに流れがち。右に倣うことほど楽なことはない。 それでも、やっぱり自分が左だと思うなら、勇気を持って左を取ろう。 捨てる決断こそ、実は拾うチャンスなのだから。 自分の言葉と感覚と価値観こそ、紛れもない真理だ。 そんな自由意思は錯覚に過ぎないのかもしれないが、どうせ錯覚するなら、まだ、この足りないオツムやフィーリングにきちんと相談してから惑わされたい。 マイノリティ上等、アホ上等。フィルターはあるが、選択は己でしたという事実が大事だ。
寂しいから、誰かと繋がりたいと思える。寂しいから、一人では到底生きてなどいけないことを知る。寂しいから、己がよく見える。
かといって、安易に寂しさを満たそうとする性急さは単なる怠惰であって、そのインスタントな行動の帰結がたかが知れていることを十代のうちに僕は学んだ。太宰じゃないけど、人の中で感じる孤独より、はるかに一人で感じる孤独の方が上等だってことを。 そして、繋がりとか仲間とかって、多分、錯覚なんだろうとも悟った。 しかし、その錯覚の先にしか安楽の地もまた無いのだろう。そう、お互いの錯覚に名前を付すことにより、錯覚の差異は一つの概念として成立し、到底埋めることなど出来ない溝を露呈することにはなるのだが、その溝の対岸には、一応、人がいる。何より、錯覚は統一性を持つ記号になるのだ。だから、僕らは寂しさを和らげることに成功する。 もうそれで良いじゃない、それを前提にして、しゃらくさいことは言わんと、やっぱり人と繋がろうと模索した二十代。何だかんだで楽しかった二十代。 そして今、僕はやっぱり、人と繋がりたいと思う。出来れば生のままで。 バカだと思われようが非難されようが、やっぱり極力開きたい。そう、自己開示を限りなくして在りたい。飾りたくもないし、虚で己を守りたくもない。 ただ己を開き、ただ人がやってきて、ただそこに何か関係性がある、みたいな感じに極力したい。 それが三十代のテーマ。 恐らく、大多数とはまた逆行するだろう。 見栄の張り合いレースには、良い加減うんざりだから…もっとも、そのレースからは逃れられないんだろうことも痛感しているけれど、それでも、やっぱりそういう場所からはなるべく離れたい。 もうこれ以上寂しい人間になりたくない。
自分が浪人していた時に受講していた、とある英語講師の弁。
understand(理解する)とは、under(下に)stand(立つ)という語源を持つらしい。 端的に言うと、真の理解は、底辺に身を置かないと得られないということだ。(言葉は悪いが) 自分は、人生で二度の底辺を経験している。 一度目は、不登校時代。そして、二度目はまさに今だ。 昨今は、不登校に対する世間の寛容度も高まり、全然珍しいことでも何でもないという認識にシフトしてきているが、僕が不登校をしていた頃は、まだ色眼鏡で見られていた。そして、落伍者というスティグマを貼られてもいた。 当たり前の話なのだが、10代そこそこの挫折が、致命的な瑕疵になどなるワケが無い。 いくらでもリカバリー可能なのに、この社会の共通認識になっている「一度でも道を踏み外したら終わり」という価値観が、若者の潜在的な可能性を剥奪してしまっている。 僕も不登校をし始めた段階で、もう終わったと思っていた。 また、挫折するまで、いわゆる、スクールカースト的な価値観の中で、ずっと上位にいたことも悪かったように思う。 スクールカーストで言えば、不登校やいじめられっ子は最下層に属する。こんな事言いたくはないが、不登校をしている奴は、カーストの下層にいる、チビやデブ、不細工やキモい奴、勉強が出来ない奴、運動音痴な奴なんかよりも、さらに下位に位置付けられている(と思う、多分)。少なくとも、自分の中学生時代は、まだそういう共通認識であったように思う。 だから、当時の絶望は凄まじかった。一気に底辺に転落していくあの感覚は、経験した者にしか分かるまい。(もっとも、ただの主観ではあるが) そして、そういった環境に身を落としてしまうと、自分を大切に出来なくなる。もう終わってる自分なんか、粗末にされて当然とか自分で思い込んじゃってるんだから、自己肯定感なんか0に等しい。下手したらマイナスだ。 だから、本当にくだらない連中に搾取される。いわゆる、カーストの下層にいる連中の、自己肯定の道具にされるのだ。 過激な発言をしていることは承知だが、誰しも本音の部分では俺の言っていることにノーとは言い切れないはずだ。何故なら、これは一面の真理でもあるのだから。皮膚感覚で経験もしてきているはずだし、欲求階層説で示されているように、そもそも、DNAに刷り込まれている。そんなこたぁ無いよという奴は、それこそ真性のバカか神だ。綺麗事を言う方がそりゃ楽だけど、清濁を併せ飲まないと真理には到底辿り着けない。だから、敢えて言及している。 さて、そういう底辺な状況から、それでも奮起出来たのは、親の支援と理解があったことが何よりだが、やっぱり上の階層に居たい、ここには居たくないという不可避な承認欲求が源泉だ。 そして、一応中の上くらいの大学に入り、ひとまず、最下層からは脱することに成功した。 そして、そういった世界は、自分に安寧をもたらしたが、すぐに居心地が悪くなった。 そう、這い上がってきた人間と、端から挫折なしに、真っ直ぐに中の上として生きてきた奴とでは、やっぱり全然違うんだという事実に直面したからだ。 勿論、エキサイティングで楽しい大学生活であったが、突き詰めたら、どこか疎外感を感じていたこともまた事実だ。 それは、就職活動の際に、明らかになった。 いわゆる、大多数の、中の上の同級生は、やはり中の上くらいの企業に就職することを「当たり前」としていた。 そして、実際に彼らは皆が名前くらいは知っている中の上くらいの企業や官公庁に就職していった。 そんな中、僕は身動きが取れなかった。 元が最下層の自分が、おこがましくも中の上の企業なり官公庁なりに滑り込むことに何か違和感があった。 最下層から這い上がってきた経験を、まるで無かったかのようにすることは何か違うとも思った。突き詰めたら、罪悪感が募ったのだ。澄ました顔で、ハイ、ちゃんちゃんには出来なかった。 ひとまず、大学だけは卒業し、今はこのザマ。既卒だと、もう有名な民間企業は無理だからと公務員試験を受けようと言い出したものの、やはり本音ではそれも違うと腑に落ちず、ただダラダラと時間を無為に過ごしてきた。 社会化を加速させていく大多数の同級生を傍目に、自分はどこに行けば良いのかさえ分からず、またどこにも行けず、ただ燻り続けるばかり。 それでも、家に置いてもらうためのお金と奨学金を返済しなくてはならないから、当座の糊口をしのぐために、誰にでも出来るアルバイトと家庭教師を惰性で続けた。たまにNPOにも顔出ししたが、こんな自分の姿は、子ども達にとってはかえってマイナスになるのではと思い(そこそこの大学出てもこのザマかよ、だったら勉強することやっぱり意味ねーじゃんと思われてはマズイ)、そこに積極的に通うことに躊躇いが常にあった。 勿論、迷わずに済む道もあった。全部自分が選んだことだ。 そして、今年に入り、同級生が続々と結婚し始めた。人づてに聞いたり、実際に、いくつかの式や二次会に呼ばれる機会もあった。 そこで見た光景は、情けない話だが、圧倒的なお金の問題だった。 彼らは、そう、お金がある。だけど僕にはお金が無い。 恥ずかしいと心底思った。 そして、その辺りからムクムクと現実的になってきた。 キャリアの入り口は、必ずしも自己実現と結びつけなくても良いんだ、まずは金を稼ぐことが大事なんだと心底思えた。 そして、金を稼ぐためにどうすれば良いのかと考えたら、やっぱり僕には勉強しかなかった。 目の色が変わったのはその時から。 ようやく腑に落ちたのだ。 曲がりなりにも頑張ってはきたが、本当に頑張ろうと決意した。 そして今に至るという感じだが、ようやくギアが入って、毎日は悪くない。 多分、どうにかするのだとイメージが出来る。イメージ出来ることは、大抵叶うと思うし、何より望んでいるからこそのイメージだ。僕はそのイメージする未来が欲しい、切実に。 さて、長々語ってきたが、冒頭に戻ろう。 僕はやっぱり底辺は嫌だ。しかし、底辺を知らない傲慢さもまた嫌だ。 やっぱり、きちんと世界や自分を理解したい。 そのために、己が今この状況を、自ら選んでいたのだと、いつか言えるようにしたい。 本当にタイトな場所にいる。気分も良くはない、当たり前だ。 でも、僕は今のこの気持ちを忘れたくない。 誕生日にあたっての決意。
年輪に輪がまた一つ増えました。
今日はただ、命の喜びを感じよう。 そう、俺は俺として生まれ、今ここに在って、そして、それで良いんだってことだ。 年齢的にも、僕はいわゆる世間一般の尺度からはかなり逸脱してしまっているが、今更ああだこうだ言ったって仕方ないんだから、まぁ、自分なりに歩めたらそれで良い。てか、多分、そういう風にしか自分は出来ない。勿論、平素は焦りやら後悔やらに満ちているが、そりゃまぁ、そんなんは誰にでもあることだ。特別なことではない。 大丈夫、俺はきっと、きちんと歩めてる。最後に納得出来れば良いのだ。 人が多い所は絶対的に正しいと盲目し、そして、そういう場所から威丈高にモノを言うバカにならずに本当に良かった。 どうせバカでも、俺は俺なりのバカをやっているつもりだし、これからもそうする。 そう、やっぱりそういう風にしか生きられない(笑) まぁ、良いじゃん、それで。 |
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