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もう納豆について語るくらいしか、僕に出来ることはない…などと思っていたが、もうそんなんは沢山。
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昨日の続き。

恐らく、「個人」という考え方がダメなんだと思う。

「個人」というくらいだから、「(一)個」の「人」-つまり、「個人」という概念が規定しているのは、「(それ以上分割不可能な)一つの個」だ。つまり、単位としては、それ以上小さくすることが出来ない。

しかし、昨日の内容も踏まえてだが、そんなモン嘘っパチも甚だしいのではなかろうかと思う。

実際問題、私の中には、いくつもの面があり、その全ては私に他ならない。

ある環境Aでの自分もまた自分だし、ある人Bと接する時の自分もまた自分だからだ。

つまり、「個人」の中で更に細分化することが出来る。「個人」≠最小単位ではない。

勿論、「戸籍的な意味での自分」は一人だが、それはあくまで、「管理する側」の都合というか、「限界」のような気がする。

実際、自分が関わる他者や環境の数だけ異なる自分は確かに存在するのだから。
そして、この考え方を採用すると随分気楽にもなれる自分を発見することが出来る。

例えば、「個人」=「一人」だと考えてしまうと、どうしようもない失敗や過失をしてしまった「私」が許せなくて、そこで行き詰まってしまうが、「私」は人や環境の数だけあると考えると、万更全ての「私」が絶望的に悪いとは言えなくなってくる。

よって、ある特定の人なり環境下で作られている「私」にばかり縛られるのは愚であると気付く。

他の他者なり環境下で作られている「私」の存在を忘れてしまっているからだ。

人は他者がいないと「自分」に気付けない。

そして、逆説的だが人の数だけ「自分」がいる。

つまり、「良い自分」、「万更捨てたモンじゃない自分」もいるんだってこと。

忘れるなよ。そこを忘れてしまったら、「戸籍的な意味での自分」を消してしまいたくなるからね。そして、そんなことをするのは本当に勿体ない、短絡的なことだと気付けるはずだ。
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