もう納豆について語るくらいしか、僕に出来ることはない…などと思っていたが、もうそんなんは沢山。
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とりあえず試験を受けてきた。
出来具合は、5~6割くらい。 やっつけ数的と、やっつけ憲法が効いたのか、案外、問題についていけた。 文章理解と憲法、社会政策、日本史、世界中、判断推理、資料解釈は多分正当出来てる感がある。 ボーダーがどこにあるのかは読めないが、あながち6割に転んでれば、期待感がないワケでもない状況。 まぁ、15%くらいの期待感を持って果報を【来年に向けた勉強をしながら】待とう。 寝てる余裕はさすがにない(笑) 今日は、同じくC日程を受けた友達と、今日の所感やら、今後の身の振り方について考察しながら、飲みに行きます。 しかし、疲れたな… PR
浅いところから、って言うか、何か事を始めるにあたっての動機なんて「軽い気持ち」でいいんじゃない。
秋だから紅葉とか、「今日は釣りしたいから釣り」とかさ。 そんで、そん時同行したメンバーと、たわいない話から、しっとりした話までを「自然な流れ」ですりゃ良いじゃん。 そうすればいつか解凍されてくと思う。 俺の欺瞞や過去や過失や嘘や見栄や反省や若さ故の青さが。 すんげえ簡単なこと言ってる気がするな。 しばらくは、この流れを、意識的に採用してみよう。 動きださなきゃ。 1ミリずつでもさ。
明日は市役所の受験。
7月くらいからだけど、曲がりなりにも、多少は悪あがきをしてきたから、ひとまずはそれを信じよう。 今日は準備を整えたり、雄ちゃんと会って少し話したり、多少、一般教養科目の参考書をパラパラやったりして、夕方からは、じいさんが来たので一緒に飲んでリラックスして過ごした。 閑話休題、何でしょうか。 「軽く捉えても良い部分」と「重く捉えなきゃな部分」に分けれたら、僕達の人生はホントに楽になるんだろうなと思う。ただの単純なセパレイトに過ぎないんだけど、これがなかなか出来ない。 とかく僕達は、楽なこと、軽いことばっかに流されがちだ。 だから、ツイッターなんかが流行るんだろうな。 もう、重たいコミュニケーションなんて時代遅れなのかもね。 軽いもの軽いもの。より快適なものより快適なもの。 よりスリムに。より無駄を省いて。 そこに何が残る? 薄っぺらい素敵な社会。 僕達は、ホントに大事なこと、足元にあるそいつを、忘れてはいないか? まぁ形骸化して淘汰されていくものなら、それはそれで仕方ないのかな? なんてね。 俺はいいや。
音楽について語る。
カッケー音楽は割に沢山ある。 卑近なトコだと、最近は、KNOTLAMPの新譜は良いなと感じたし、SpecialThanksのアコギverも良いなと思った。 しかし、否定するワケじゃないけど、何か「熱さ」が足りないと言うか、「底が浅い」と感じざるを得ない。 結局、僕が音楽に求めるものは、メロディのカッコ良さは言わずもがなだが、それにも増して希求しているのは、「どんだけ苦心して掘り下げたか」という、真摯な気持ちが伝わってくるかという点だ。 それは極めて恣意的な感覚なんだけど、そこが感じ取れないと、少なくとも僕は、好きにはならない。 勿論、カッコ良いとは感じるんだよ。 でも、やっぱり俺が希求しているのは「熱」と「真摯さ」。それに「そいつの苦難から出発する、自分の言葉で語られて(表現されて)いるいること。この三点だ。 だから、細美は好きだ。 そして、ボブ・ディランも好きだ。 最近では、青臭いとは思うけど、ワンオクからもその姿勢を感じて好感が持てる。 その点、やっぱりtelephonesや時雨、やくしまるえつこなんかは、やっぱ何かが足りない。 そう思う。 勿論、曲は嫌いじゃない。 だけど、絶対的に好きにはなれない。 そんな感じ。 要は、テメェの不器用なスタイルで、極力嘘偽りなく、真摯にやっている奴が好きなのだ。 とか何とか言うけど、フェスに行ったら何でも楽しい、最高!なんて思ってしまう。 だから、音楽は不思議だ。 そんな僕は今もHIATUSを聴いている。 要は好みの問題なんだけどね。 苦心の跡や生きざまは、分かるんだよ。説明できないけど、そういうのって伝わるんだよ。 でも、俺は否定をしているワケじゃない。 好みの問題だ。 真剣に苦しんでる奴しか信用できない、なんて思い込んでるから、そういうのが感じられるアーティストしか、真の意味では好きになれないのだと思う。 特に、やくしまるえつこはダメだ。 「何となく」で売ってるからだ。 信用できない。 時雨も怪しい。 カッコ良いんだけど、重さがないんだよ、何か。 難しいよな。音楽って。
今日は起きて愕然とした。
理想と現実があまりに解離していることから、やっぱり逃れることなんて出来ないやって思ったからだ。 昨日寝る前に、「桃源郷」のような記事を書いた。 だからであろう。 朝目覚めた瞬間からの「現実の重さ」が対比感覚となり、そのギャップに耐えられなかった。 とりあえず、タバコを吸いながら、ひとしきり絶望してみたが、10を数えてやめた。 春樹が何かの小説の中で、主人公にやらせていたことだ。 「10、9・・0。はいおしまい」ってね。 僕もそれに倣い、「現実的な僕」に今日も転身する。 世を嘆きながら、アイロンがけや、入念にウォシュレットを使うことは出来ないのだから。 今日は予備校へ。 民法。 終わった後、一風堂でラーメンを食べて帰宅。 今日も、昨日同様に予備校の授業込みで10セット。 ようやくスイッチが切れる。 束の間の「ホントの私」。 そして、「ホントの私」だなんて決めつけている「私」を客観視している「私」。 よく分からないが、とにかく、スイッチは切っても良い時間だとは思う。 スイッチが切れたら、やっぱり「桃源郷」を夢想したくもなるよ。 そりゃそうだろ? 俺は今日も無味乾燥なミクロ経済の問題を解き、数的処理をヒーヒー言いながらやり、憲法の遠回し的な言葉使いに辟易し、そして、ワケも分からないけど、朝起きて、髪型までセットして出掛け、帰りは満員電車に揺られ、オッサンに挟まれながら、汗だくで帰宅したのだ。何で生きてるのかも分からないのに。 健気な奴だ。 だからこそ、スイッチが切れたら、僕は夢想する。 でも分かってるよ。 それは言わないでくれ。 本質的な解放は、現実の堆積の中にしか、恐らく見出だせないモンだと思う。 だから、明日も生きよう。 堆積の体積が、ある段階まできたら、僕は救われる。 なんてね。 くだらないけど、的を射ている気もする。 要は明日も生きなきゃねってことだ。 スイッチを入れてさ。 その時間の堆積が、「スイッチの入っていない自分」をいつか救う、と思い込んでいる「自分」。 主体はどこにある。 そして、主体が主体たる根拠はどこにある。 そりゃ、言うまでもなく、「今、そう思う僕」だ。 それ以上でも以下でもない。 でも、そいつを疑わないといけないことは、前にも書いた。 だから、僕は生きて探さなきゃいけない。 こんなことを思わなくて済む「自分」を。 あるいは、その到来を。 |
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