もう納豆について語るくらいしか、僕に出来ることはない…などと思っていたが、もうそんなんは沢山。
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今日は地元の友達とフラリとアウトレットに。
もう秋物の季節である。 個人的には、秋物を洒落込んでいる人はオシャレな人だと思う。 たかだか、10月~11月初旬までくらいの僅かな期間のために、薄手のコートやジャケットを殊勝にも買ってみたり、季節に合わせてキャメルやモカ系統の色合いのコーディネートをするなんて、実際、コストパフォーマンス的な側面から見たら、かなり割に合わないと思うが、裏を返せば、限られた期間を大切にしている人とも言えるね。そして、日々を大切に愛でられる人は、もうそれだけで十分に洒脱で粋だ。 と、私も洒落っ気を決め込もうと買い物に出向いたワケだが、どうにもピンと来るモノも少なく、また、唯一ピンと来たキャメルのマウンテンパーカーが、運悪く自分のサイズに合わず、結局、何も買わずに終わる。まぁ、こういう日もある。 そして、友人と別れた後に、カウンセリングへ。 具体的なことを述べるのも野暮だから詳述はしないけれど、僕には大別すると二つ、自分を今尚苦しめる後悔というか、自責の元となっている過ちを抱えている。 そして、その自責にいつだって縛られて染められて、自分の中の、自由な気持ちや楽しい気持ちの尻尾を掴んだ殺那、「お前にはそんな権利(手放しでそれを享受する権利)があるワケないだろ」と、自分を許さない自分がいる。 だから、苦しい。いつも抑えつけられてばかりだった。 しかし、今日のカウンセリングを通じて、その過ちに対して、そろそろケジメではないけれど、お別れしても良いのではないかとの提案を受けた。 つまり、現状、なし崩し的に自罰しているこの悩み方を改め、自責を感じる根本となっている出来事なり、傷つけてしまった人達なりに向けて、反省文を書いて、それをレクイエムにすることにより一つの儀式にして、もうそろそろ前を向いてはどうですかとのことである。 そう、僕はケジメを求めていた。正直、もうどうして良いか分からないでいた。ただ、儀式という発想は新鮮であった。 冠婚葬祭。つまり、数多ある文化的な儀式は、結局のところ、それ自体に意味があるのではなく、自覚を喚起するためにあるのだと思う。 例えば、「結婚式」をするから夫婦になる自覚が芽生えるのであって、ケーキ入刀やブーケを投げることそれ自体に意味は無い。 また、「お葬式」をするから、その人とお別れしなくてはいけない現実を受け入れ(させ)られるのだ。 焼香や南無南無それ自体には当然、意味なんて無い。(お坊さんごめんなさい) さて、てなワケで、僕は儀式として、この自責とはそろそろお別れしたいと思う。 良いきっかけだ。そして何より「機が熟したから」こそ、儀式が儀式たるのかもしれない。 今より経験値が少なかったタイミングでは時期尚早だったろうし、見ないフリをして後々気付いたのではきっと遅かったと思う。 そう、今だからこそなのだ。 ひとまず、僕は手紙を書く。 そして、もう良い加減強くなるし、きちんと正しいことをやっていきたい。 僕の中にある正義はやっぱり正義だと思うし、もうこれ以上、意にそぐわないことはしたくもないし、感情にフェイクもしたくない。 何のために辛いところを生き延びてきたんだよ。 還元するためだろ? 俺は俺のカルマを、きちんと全うしたい。 そして、笑いたい。泣きたい。本心で。 さぁ、始めるぞ。 もう人の目やジョーシキやおべんちゃらや空気なんて忘れて、僕は僕を取り戻し、そして、これからは素直に生きるんだ。 PR
だから、じっくりと腰を据えて内省する必要がある。
そして、こころの声をきちんと聞く必要がある。 ただ闇雲に生きても仕方ない。 そして何より雑音や足を引っ張るあらゆるに、惑わされてはいけない。 成功の鍵は、自分の本心以外の徹底的な無視と、自分に対する信頼の先にしか無いと思う。 だから、俺は俺のやり方や考えを全面的に信じ、全うすれば良い。 道は案外明るいのだ。 ただ、色々なつまらない要素が足元を曇らせているだけの話だ。 実践し続けろ。 バカにされても、何と思われても。 笑いたければ笑え。 俺は君のようにはならない。
日増しに深まっていく秋の気配。
南中のこの時間帯に吹く風が涼し気なところに、夏が去っていったことを感じる。 週末は、試験が終わった足で、奥多摩方面にキャンプに行って来ました。 出発が夕方だったため、買い出しやら何やらを済ませ、現地に着く頃には既に夜。 そこから、テントを設営したり火を起こしたりして、22時前後に、ようやく形となり、酒盛り開始。 鱈の寄せ鍋と焼き鳥を肴にして、奥多摩の夜は更けた。 明け方、ひどい雨音で目が覚めたが、疲れていたため、ひとまず色々と無視して二度寝する。 8時頃、雨が上がったのを確認し起床。 やや遅いスタートにはなったが、1時間程釣りへ。 アタリを二回程スカして、結局ボウズでテン場へ戻る。 そこから、濡れた薪に着火せんと、小1時間ばかり火起こしに奮闘。 んで、無事に火起こしに成功した後は、火のあるうちにと、早々に朝食をこしらえて食べた。 昨日の鍋を温め直して、マルタイラーメンを入れて食べたのだけれど、これがまた中々旨かった。 んで、食後は川開き(笑)をしたり、火の前でゆっくりしたりして、13時には撤収して帰路に着いた。 風の音と木々のこすれる音、それに川のせせらぎが織り成すサラウンドは、やはりいつだって心地よい。DNAに染みる。 そして、毎回不思議に思うのだが、テントを設営した場所及びその周辺が、初日はどことなくよそよそしく感じられるものだが、翌日以降、途端に圧倒的なホーム感を感じるのだ。 人間の適応力は凄い。そしてそれは、自分にも備わっているんだなぁと思うと、いつだって不思議な気持ちになる。 とまぁ、こんな感じで奥多摩キャンプは心地良かったです。また近々行きたい。
これはもう誰しもに妥当することだと思う。
思い返しては、ひっくり返りそうになるアレコレや、空回りの数々。 無駄にエネルギーだけはあるが、それも諸刃の剣だ。 青春を総括し、本当にみっともなくて情けないな、そしてもうイヤだなと思う夢を見て目覚めた。 実際、もうイヤだもうイヤだという自分の寝言で目が覚めた。 そう、もうイヤなのだ。 みっともなくてダサい、情けない青春とは、そろそろお別れしなくては。 こちらから手を離そうと決意しない限り、きっと先には進めない。
まさに。
僕達の生は、何にも無い代わりに何でもあるということ。 つまり、何も無いことと何でもあることは同義なのだ。 自分の祖父年齢くらいの作家だか詩人だかが、何かのコラムで言っていた。「戦後の焼け野原の景色には、何にも無い代わりに何でもあった」と。 ×××××××××××× 僕達は、無いから創って、何故かそれを壊し、カタルシスを得てまた創りまた壊す。 つまり、何でもあって何にも無いから。そうせずにはいられない装置のようなものがあるのかもしれない。 今日の昼下がり、不思議な形の雲と、何だか泣きたくなるような青い空を見て、僕は空っぽなんだから大丈夫なんだと思った。 |
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