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もう納豆について語るくらいしか、僕に出来ることはない…などと思っていたが、もうそんなんは沢山。
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私の「意識」は紛れもなく私のものだが、では、「意識」が私を構成しているのかと言えば、そうではない。

「意識」とは、私という一人の人間の、総体としての「 一部」にしか過ぎない。

私には足があり腕があり、内臓があり、脳がある。

つまり、「意識」とは、有機体としての私の、単なる一機能、一部分にしか過ぎない。
しかし、かくも「意識」にばかり注意が向き、気が付けば、常に「意識」に支配されてしまう。

きっと足は泣いている。手も泣いている。

なぜ、あなたは「意識」ばかりを重視するんですかと。
しかし、こういう視点もある。

「意識」が五体の総体としての私を支配しているのだと。

つまり、五体は、「意識」の支配下に過ぎない。

「意識」あっての私という総体だとする視点だ。

しかし、仮にそうだとしても、私は反抗したい。

「意識支配主義」に囚われてしまうと、「私」そのものを愛せなくなる。

だから、明日は、私の髪の毛を愛そう。明後日は肝臓。しあさっては、皮膚を愛そう。

ふと気付く。

「〇〇を愛そう」と思うことも、「意識」だ。

自家撞着。

結局は、「意識」からは逃れることなんて出来ないのか。

だとすると、少しでも楽に生きるためには、「意識」を支配する「知恵」、「方法論」が必要なのかもしれない。
俺は「意識」に負けたくない。

人は自らの「意識」を盲目的に信用し、絶対的なモノだと思っていると思う。

しかし、俺は疑っている。「意識」なんて信用出来ない。

だから、俺は「意識」を服従下に置きたい。

「意識」なんかに支配されてたまるか。

実体のないモノに踊らされることは、愚だ。

「意識」がいつか、3Dメガネ越しにでも立体化され、視覚化されることが出来たなら、その時は信用しようと思う。

まぁ、早い話が、私の「意識」は誤解や錯覚、誤った認知や認識を、かなりの部分内包していると思うので、信じるな。それは絶対ではないってことだ。
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