もう納豆について語るくらいしか、僕に出来ることはない…などと思っていたが、もうそんなんは沢山。
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残酷な事実だが、人は結局は孤独な存在だと思う。
承認欲求があるから、それを満たさんと足掻き、何とか手にしたソレに、社会とか世間とか仲間という名前を付して、自分は意味がある存在で、その繋がりはかけがえの無い何かだと思い込むことによって自己崩壊を防ぐ。 そう、そもそもが予防線でしか無く、それは多分突き詰めれば、「あなた」でも「私」でも無くて良いのだ。 それでも、そこに意味を見出さないと僕たちは僕たちの在り方に耐え切れないし、多分、そこまで深追いする領域でも無いと思う。何故なら、その答えはどこまでも冷徹で残酷だから。 我々の自然権を偶然に全て委譲する、ある種のホッブズ的発想は怠惰だけれども、所詮は選らんでいるようで、実のところ、選べることなど極僅かなのだ。 だからこそ、主体的に選ぼうという意志そのものを持つことがまず大前提だし、逆を言えば、それくらいしか出来ることもない。 さて、冒頭に戻るが、人は孤独だ。 でも、それを引き受けることがこの世に生まれてきた業かもしれない。 生まれてきたことそのものを、絶対的な幸福だとするなら、現世で起こること全ては、甘受せねばならんのかもしれない。その一つに、人は一人だという辛辣な事実が挙げられる。 僕は所詮、承認欲求の奴隷だ。満たさなきゃヤバイってDNAが言うから、満たすより他はない。 何ども同じ、似たようなことを言うようだが、DNAからは逃れられない。 その一つに承認欲求があるのなら、それはやはり、満たす必要があるのだろう。 そう、まやかし偶然、代替可能かもしれないが、僕達が一人で立つためには、そういった、所詮は幻な観念や、DNAからの要請の双方を引き受けた上で、腑に落とし、孤独と戦うしかない。 そう、これら一切を引き受けることが一人立ちの最低条件なのだ。 しかし、代替可能かもしれないが、実体は固有で、接触頻度に比例して、親密さを持つ。 その親密さに名前を付けず、ただ受け入れれば良いだけの話なのか? 理性で認識する以外の、皮膚感覚みたいなモノが意味か?そしてそれが孤独を感覚的に薄める秘訣か? 分からない。 ただ、孤独を受け入れないことには、やっぱり次のステップ?みたいな所には行けないことも何となくはそりゃ分かる。 まぁ、夜の戯言。出来得る限り、僕は深いコミットメントを経験してみたいものだ。 PR ![]() ![]() |
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