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もう納豆について語るくらいしか、僕に出来ることはない…などと思っていたが、もうそんなんは沢山。
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折れない強さ、それは、しなやかさと同義な気がする。

しかし、一体、どうすれば、しなやかになれるのだろうか。

薄ぼんやりと考えてみたが、①極力身軽になること②こだわらないこと③どんな目に遭おうとも、あくまで、「分人」がそれを被っているだけで、「私の全て」が否定されるものではないと思うこと、の三点な気がする。

まず①。自分にとって、主観的にどうでも良い物事は、大胆に「切り捨てる」。荷物は軽い方が足が動くし疲れない。そして、身軽になることは、実は自分を大切にすることにも繋がる。

「自分の人生に詰め込める容量」は、多分たかが知れている。

それだったら、くだらないムラ意識の連帯や作法、慣習なんかに基づくあれやこれも、単なる余計な荷物でしかないことに、直ぐに気付くはず。大体、それが、どれだけ自分を救ってくれたかに思いを馳せると、手を胸に当てるまでもなく、単なる徒労、労多くして益なしとはまさにこれだと悲しい気持ちにさえなる。

とにかく、荷物は軽く。

②そもそも、何かにこだわらなくてはならない理由をまず見つめる。暫定的に、その理由が、「こだわらざるをえない」種類のものであるならば、まぁ、それは仕方ないとして、その理由が取るに足らないもの、(単なる見栄とか、つまらない次元の承認欲求)であるなら、そこに執着する意味も価値も薄い。つまり、あんまり意味がない。

意味がないことに躍起になって、自分を疲弊させては元も子もない。

しなやかになるためには、執着を減らし、こだわらず、あらゆる自然状況に応じ、折れないように極力、ただ、なびくことだ。少し①とは矛盾する部分もあるかもしれないが、まぁそこも、こだわらない。

そして、③について。

この意識が一番大事かも。

誰かにボロクソ言われたり、死ぬほど嫌われても、別にそれは、「自分の全否定」とはイコールではない。

たまたまその相手との分人が、否定されたに過ぎない。

別の人向けの分人では、恐らくまた違うだろうし、そもそも、ボロクソ言うような奴とは関わらない方が良いわけだし、死ぬほど嫌われているなら、むしろ、サインを出してくれてありがとうと思おう。

そう、分人の数だけ評価があるのだから、その一つ、あるいは、いくつかが否定されたからと言って、ふさぎ込んだり自己否定する必要など、まるで無いのだ。

しなやかに折れないように。

悔しいやんけ、つまらない物事に、文字通り殺されたりしたら。

僕の数少ない交友関係や知り合いの中に、自殺した人が二人いる。

彼らの訃報を受けるまで、自分は何も知らんと呑気に生きていて、後になって、何の手助けも出来ず、本当に申し訳ない気持ちと自責がある一方、彼らの死から「しなやかさの重要性」を学ばせてもらった。

強くなくても本当は良いのかもしれない。

しかし、強くならなければ、多分、生き延びることも何だか難しそうだ。






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