もう納豆について語るくらいしか、僕に出来ることはない…などと思っていたが、もうそんなんは沢山。
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これは昔から疑問なのだが、人は己の幸せを相対的な尺度無しに計れるものなのか。
月並みだが、この世には、自分以外の他者がいるから、初めて「自分」という存在を認識することが出来る。 つまり、他者がいないことには、「自分」という概念はまず生じない。 そして、他者がいるから己という概念が生まれ、比較という考え方も生まれる。 そう、我々が何かを考えたり感じるに辺り、相対的な尺度からは逃れられない。「自分で導いた考え」など、突き詰めれば「他者」だし、もうワケが分からなくなってくる。 絶対的な幸せを考えるにあたっても、相対的にしか物事を発想出来ない我々人間は、とどのつまり、どれだけ足掻こうと、他者からは逃れられないのだ。 自由意思なんて思い込みだ。各人、ガチガチにバイアスがかかり、偏った認知に縛られている。 絶対を望むこと自体が、そもそもの間違いか。 相対的な幸せを絶対的だと、無理矢理思い込むしかないのかね。 みたいなことを考えだすと、ほとほと生きることに意味なんてまるで無いんだなぁと白けた気持ちになってしまう。 そうやって今日を塗りつぶし、明日をやり過ごし、いつしかこんなことを思うことも面倒になり、体は衰え、残された時間の短さに辟易し、それを必死に否定せんと意固地になり、そんなことをしているうちに死ぬだけだから。 結局そんなものさ。 気楽にやろう。真剣に生きるには、この世はアホらし過ぎる。 PR ![]() ![]() |
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