もう納豆について語るくらいしか、僕に出来ることはない…などと思っていたが、もうそんなんは沢山。
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明日は特別区試験。年齢制限的にも今年がラスト。
何とか、入り込めたら良いのだが、ダメならダメで、縁がなかったんだと割り切って、次に進もうと思う。 猪瀬直樹著『突破する力』にはこうあった。 「日本の社会は一度負けたら終わりのトーナメント戦。だから、社会の硬直化を招く。」 その通りだ。何だかんだ言っても、我々は、社会の圧力や教育過程において、「一度でも脱線したらアウト」という意識を刷り込まれている。 だから、たった一度のしくじりさえ許されない、実に居心地の悪い社会に生きていると言える。 しかし、そういう思考は、もう形骸化させていかなきゃ。そう思いたい奴がそう思えば良い。 そういった、「活版原刷」が如く、刷り込まれた「社会の因習」にはツバを吐いて中指を立てろ。 猪瀬直樹はこうも続ける。 「一方、アメリカはリーグ戦。途中で負けても続きがあって、挽回が可能と」 確かに、日本とは、「キャリア」の発想がまるで違う。柔軟性がある。 しかし、アメリカを何も賛美するわけではない。 肝要なのは、そういった、「人生はリーグ戦」的な発想を持てるかどうかということである。 「どん詰まり」を感じている最中でも、「今は負けがこんでいるけど、いずれまた挽回出来る時期がくる」と信じて、悲嘆することなく、前を向くことだ。 まぁ、とにかく、頑張ってきます。 PR
今日は不思議と何も言いたくない。
自分と争うのにも疲れた。 そもそも、自分と喧嘩してどないすんねん。 分からないことだらけだ。 そんな、分からなさを抱えて生き続けていける、己の不思議を思う。 ああ、分からないから生きていけるのか。分からないけど。
今日も元気良く大学。
もはや、残すところ2単位。つまり授業1コマで良い算段が立つのだが、いくらなんでも、さすがにそれは勿体ないし、両親にも悪いと思う。 よって、授業を3つ取ることにした。しかも、週3で。つまり、授業1コマ受けるためだけに、健気に大学に通っちゃおうという試みである。 そんな私の姿勢に、大学の友人は、シンプルに、「お前…アホちゃうの?」なる貴重な暴言を頂きましたか、俺は俺。君は君。 今日は、カウンセリング論という、文学部の心理の授業を受講。 この授業を担当する講師が、認知行動療法を専門とする先生なので、一も二もなく、自らの琴線に触れた。 まぁ、この講義を受ける目的は、「自分のため」という位置付け。 んで、火曜日は、自治労の寄付講座を受講予定。これは、現職公務員の方々が、毎週大学に来て、講義をしてくださるというもの。 やはり、「現場のナマの声」が聞けるというメリットがあるため、これはまぁ、就活対策という位置付け。改めて、自分にとって、公務員という将来の選択肢が妥当なのかどうか、判断する一つの指針に出来たらなと。(てか、こんなこと言ってる場合か…) そして、金曜日には憲法の講義。これはまぁ、シンプルに「試験対策」の補完になるからと思い受講を決意。 いやいや、にしても、久しぶりに大学行って講義を受けたけど、大学の講義は、自発的に受ける限り、とても楽しい。シンプルに。 一応、専門家なる講師陣が、各分野の「最先端」なり、「独自性」を引っ提げて学生に提示してくれるからね。 知的好奇心に、自ずと火が灯る。自分は、オベンキョーは嫌いだが、モノを考えることは嫌いじゃないからね。 そういう意味では、「その考える素材」をシャワーの如く垂れ流してくれる大学の在り方は貴重だと思う。 まぁ、シンプルに息抜きにもなるしね。家やら図書館やら予備校に籠もって、ただ一人、ムッツリと勉強するのは実際キツいし、案外、能率悪い気がする。 だから、息抜きも兼ねて、むしろ肯定的に、僕は講義を受けるスタンスで行きます。 さて、今日は、本当は自分の核心が揺らぐ思考に陥ってしまい、正直、混乱している。というより、自分が恥ずかしい存在だと痛感してしまうようなトリガーがあって、それを書きたいんだけど、眠気&寝て起きたら、案外、気持ちもガラっと変わるかもしれないから、あえては書きません。 簡潔にさわりだけ言うと、結局僕は、既得権益の仲間入りをしたくて、枠にはまりたいだけなんじゃないかと思い、自分が情けなく、どうしようもなく恥ずかしくなったのだ。 まぁ、今日はここまでにしときます。 理性は本当に、いつだって僕の邪魔ばかりする。しかし、抑圧されているボトムの部分こそが、本当は「ソレ」なのも分かり切ってはいるんだよ。 ただ、どうしようもなく僕は怖い。安易な選択肢が目の前にあるから、どうしても、その選択肢を無視出来ない俗物な自分がいます。 そして、そんな自分を「自分」は蔑んで、笑っています。そして、格好悪いとも激しく思います。 ええい、今日はもうやめだ。 明日、また考えれば良いか。 とりあえず、今日も延命に成功した自分に賛辞を。人の役にもいくらかたったとも思う。 追い込み過ぎるなよ。まぁまぁうまく、「ステップは踏めている」。きっと、羊男でも、50点くらいは付けてくれるはずだ。
どうにも、ツイッターをやり始めてから、ブログがなおざりになってしまっていた。
mixiを始めた当初も、ブログがご無沙汰になってしまったが、すぐにまた出戻りしたので、今回も、恐らくそのパターンだと思う。 まず、ブログは、長文を書けるところがメリットだ。 書く前に、ツイッターやmixiに比べたら、「よっこらしょ」的なテンションが要求されるが、一度、筆を取りだしたら(筆じゃないか)、深く自己に没入出来る。 それはmixiやツイッターにはない長所(僕にとってはだが)。 やはり、mixiやツイッターなどのSNSだと、どうしても自分を曝け出すことは難しい。 それは、mixiやツイッターが、今や「名刺交換的」な、ニュアンスを持つコミュニケーション・ツールだからだ。 だから当然、僕が発信する情報の「受け手」には、正直、仲良くない人もいれば、あんまり自分を曝したくない人もいる。 まぁ、それが悪いわけではない。ライトなコミュニケーションには、ライトなコミュニケーションのメリットがある。 例えばそれは、毒にも薬にもならない馴れ合いであったり、まぁ社交辞令的な要素が充足出来ることだ。 しかし、ブログはやはり違う。わざわざ教えてまわるモンではないからね。まぁ、人それぞれ、位置付けば異なれど、少なくとも僕は、(出来る限りだが)自己開示の場として使っているし、そしてまた、自己開示なる試みが出来る場所もここしかないのだ。 原点はいつだって大事にしていきたい。 俺は喜怒哀楽、過去も現在も未来への展望なり迷いを、いつだってここに吐き散らかしてきたではないか。 思いを言葉にして、今日まで生き延びてきた。明日もそうだし、多分、明後日もそうするだろう。 自分の吐き散らかした言葉の「跡」は、言うまでもなく今日の自分への布石。 どこに続くか分からないこの道だが、倦むことなく、それでも一日一日と、「前に進んで」いきたい。何が前かなんて分からないけど、とにかく、進んでいきたい。
毒を吐くより、愛を吐け。
批判をするより賛辞を。 嘆くなら祈れ。 いつも誰かを喜ばせていたい。 自分のためだけに行使する「生」に、果たして意味なんてあるのか? 他者がいるから、生きていけるんだろう? だったら、自分よりは他者を思った方が良い。 などと、疲れた頭で思う5月の初日。 |
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