もう納豆について語るくらいしか、僕に出来ることはない…などと思っていたが、もうそんなんは沢山。
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2010年は、負の年であった。
いくつかのことが積み重なって、物事は悪い方へ悪い方へと進んでいった。 打開しようとそれでも何とか足掻いてみたけど、持ち前の切り替えの下手くそさそ、繊細さ(笑)に足を取られて、なかなか思うようには好転しなかった。 本当に、これまでの人生で最低の一年だった気がする。 ただ、良い契機になったことは確か。 悩みの底にある、自我の問題についても掘り下げられたし、改めて点検する良い機会にもなった。今まで気が付かなかったことにも、気付けたりした。 地に足が着いていなかった自分。熱に浮かされたような大学生活を過ごしていたので、一回、地面に叩きつけられる必要性はあったのかもしれない。 勿論、そんな目には極力あいたくないが、必要悪とでも言おうか、長い目で見たら、決して悪いことではなかったと思える日がきっとくるはず。 2010年は、些細なことを引き金に、加速度的に自信を喪失していった。 今まで自信になっていたことが、ことごとく瓦解した。 それまでの自分が自信にしていた、虚像のベールが剥がれてしまい、僕は無防備になった。 無防備は弱い。 益々、些細なことが僕を追い詰めた。そして、色んなことに傷ついた。 そんな一年であった。 しかし、きっとそれは、変化のための「サナギ」の段階にいたから。 サナギは無防備で弱い。 しかし、幼虫だった自分が、次の段階に進んだということだ。 成長は痛みを伴うもの。 渦中にいる時は、その痛みにばかり気を取られ、痛みの意味や価値などは、勿論、タイムリーには感じられない。 しかし、渦中をくぐり抜け、後々振り返った時に、その痛みや価値の持つ本当の意味に、はじめて気が付くのだ。 今までもそうだったし、きっとこれからもそうだ。てか、人間、皆そうか。 今が最低、最悪でも、それは次の段階に進むために必要な痛みだと思う。 だから、焦らず、ヤケクソにならず、ただ目を閉じて、嵐が去るのをひたすら待つしかない。 次の晴れた日には、きっと、もっと強くなった自分と出会えるだろう。 些細なことでマイナスに向いてしまった自分の長所なりエネルギーを、次のステージでは是非、プラスに転化したい。 頑張れ、自分。 PR
だいぶ考えたんだけど、僕は無意識的に、「やりたくないこと」ばかりを、これまでの人生で選んできた気がする。
大学受験なんて、その最たる例だ。 良い大学に行かなきゃ、僕は誰からも認められないと思っていた。 親からも愛されないとか思ってたのかもね。 もう、とにかく盲目だったから、学部なんて何だっていいやと、とにかく、少しでも良い大学に入らんと突っ走ってきた。 その結果が今である。 僕のこれまでの人生は、実に空しいものだった。 本当はやりたいことや、本心が見えていたのに。 僕はやっぱり、心理学をやりたかった。そして、不登校の支援活動をし、少しでも不登校を取り巻く今の状況を変えれたら良いと思っていた。 でも、僕も若かったんだと思う。 世間一般的に評価されている権威にすがりたかったんだと思うし、そういうモノが必要だったんだとも思う。 でも、今ならキッパリ言える。 僕には、そういうモノはもう不要だと。 自分の気持ちと正面から向き合って素直になった時、どうしようもなく心理学を勉強したい自分がいる。回りくどいことなどせず、自分が思う職業選択をしたい自分がいる。 そういう気持ちに、やっぱり嘘はつけない。 そして、何より、そういう気持ちに思いを馳せた時、僕の心は、自然と浮き足だつ。やりたいと純粋に思える。 一度しかない人生だ。 突き詰めたら、結局、人間には、やる奴とやらない奴しかいないのだ。 やらされている奴は腐るほどいるけど、僕には到底、そんな真似は出来そうにもない。 だったら、どうすんだ? もう答えは見えているじゃないか。
やってきたことに目を向けると、少し自信になる。
ここまでタフだったけど、何とか生き延びてきたじゃないか。 そう考えたら希望も持てる。 まぁ、くたばって、それでも、まだ何かくたばりたくない「生への執着」みたいなモノがあって、その火は限りなく小さいような気はするけれど、少なくとも、火はまだある。 そいつがあるうちは、まだまだ大丈夫だ。 キリスト教は自殺禁止。 自分に対する殺人だから。 隣人愛も良いけど、まずは、自己愛から。他者を愛するように、自分をまずは愛するのだ。 本当の隣人愛は、そこから始まる。 贖罪としての隣人愛は、単なる補償行為だ。 自分を愛した上で、隣人を愛そう。 まぁ、焦らずに、一歩一歩。
習慣を少し変えてみようと思う。
自責の念にかられたら、むしろ、アホらしいことをしてみる。 例えば、腕立て伏せとか、パソコンの掃除、アイロンがけなんかも良いね。 逃避なのかもしれないが、逃げることの何が悪い。 最近、友達に春樹の作品のほとんどを借しっぱなしにしてて、すっかり「脱春樹状態」になっていた。 『ノルウェイの森』のワタナベ君は、齢18歳にして、実に含蓄のある言葉を残している。 「深刻になること≠真実に近付くこと」なのだ。 カリフォルニア・ガールズでも口ずさみながら、今を生きることも大事。 キスギが死んだ意味に囚われて、いつまでたっても、ぬかるみに足を掬われるワケにはいかないのだ。 まぁ、もっとも、実際のところは、「結局は逃げれば逃げるほど、キスギやナオコが追いかけてくる」というのが、ノルウェイの森の核心だとは思うのだが… でも、まぁ、クソ真面目はイカンということだな。 誰も信じてくれないけれど、僕は、クソ真面目なのだ。 クソ真面目≠真実ではないぞ。 真面目な人間は、不真面目になろうと意識しないと、気も抜けないのである。 まぁ、棚上げも良いじゃないか。大江健三郎的に言えば、抱えている問題を、括弧にくくるのだ。 生きてナンボだ。生きること即ち、式となり、いつか括弧の中身も解けるであろう。 解けなくても…まぁ、だから駄目だというわけでもないじゃない。 今日は20度近くまで上がるらしい。 高いリール、買おうか、今日はほら天気が良いからである。 ゴッチだって春樹だって大江健三郎だって、そして、僕だって、形や種類は違えど、似たようなことに悩み、似たような結論を求めている。 そりゃそうか。同じ人間なんだから。
今日はカウンセリングに行ってきた。
毎度、通う度に思い出すのは、「自己肯定の視点」だ。 過去のネガティブなことばかりを今に反映させるのではなく、過去のポジティブなこと、積み重ねてきたこと、達成してきたことに思いを馳せないとね。 そう考えたら、「自分、結構良くやってきたじゃん」 などと、自己を少しだけ見直すことが出来る。 こういった、プラスの側面を評価してあげないと、自分がまぁ…シンプルに気の毒ではある。何もアンタ、全部が全部、悪いことばっかりしてきたワケじゃないでしょと。。。 まぁ、そうは言っても、僕は未だに僕を完全に許せない段階にはいるから、早急さを求めてはいけない。 気長に、未来を信じて、いつの日か今が…途方に暮れている、今この現在を、笑い話に出来るように、まぁ果報は寝ては待てぬが、悶絶しながらでも、きっと果報きたりと、希望を持って待とうと思う。 僕はもっと、僕自身や歳月の力を、信じていいんだと思う。 my life is all mine.to be kind to myself. 今日は良い一日であった。 |
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