もう納豆について語るくらいしか、僕に出来ることはない…などと思っていたが、もうそんなんは沢山。
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今日は、石井とアウトレットに行く約束をしていたので、アウトレットへ。
アーバンリサーチで白のコットンシャツを、チャオパニックでズボンを買った。 石井はBEAMSでスカルのシャツを購入してニヤニヤしていた。気持ち悪かった。 んで、その後、飯を食いに行ったり何なりして帰宅。 帰宅して即、ランニング7キロ、腹筋150。 かなりバテてたんだけど、家で腐りたくなかったから、無理矢理動いた。 逃げかもしれないけど、エネルギーを少しでも良いから外に向けたい。 閑話休題、こういう考え方がある。 「何か(問題)を考えないようにするために、意識を逸らすために、無理矢理何かに没頭する」 みたいな感じの。 俺の友達がよく言ってるんだけど、なるほどなぁと思う反面、やっぱりそれは逃げなんじゃないかと内心ずっと思っていた。 しかし、ふと思ったんだけど、それもアリなんじゃないかと。 逃げかもしれないけど、今の暫定的な自分では、どれだけ正面から向き合っても、解決出来ないことってあるだろう。何より、「何かを解決するための自分」が、まだ形成されていない可能性もある。つまり、力量不足の可能性があるのだ。 だから、端から見たら逃げに見えるのかもしれないけど、とりあえず意識を逸らすというのは、悪くない選択なのかもしれない。 何か毎日毎日、同じことを繰り返すようだけど、生きている限り、チャンスはあるのだから。 だから、やっぱり生き続けてナンボだ。 大江健三郎が何かの著者で言ってたんだけど、 「僕たちの人生は、方程式みたいなもんだ。暫定的に歯が立たない問題は、ひとまず括弧に括って、生き続けるという「式」を立てるうちに、次第と、括弧に入れた問題が解けていたり、あるいは、解くためのひらめきが浮かぶかもしれない。そして、僕はそれで良いと思う」 みたいな趣旨のことを言っていた気がする。 何つうか、すごい救われる言葉だ。 16だか17くらいに読んだ本なんだけど、こんな所で役に立つとは。 だから、今は色々抱えてるけど、括弧に入れてしまおう。 それは多分、逃げではないと信じたい。 PR
とりあえず、ヤケクソ回避のために、今日はすんげぇハイピッチで走った。
8キロ。 その後、石井と合流して基礎体ダッシュ。 自棄になる気力さえ消失させて帰宅。逃げなのはよく分かってる。 その後、雄ちゃんと会って雑談し、石井と再度合流してラーメン行ったり、等々。 モヤモヤしてても、事態が好転するワケでもない。 だからせめて、自分の中に、良い循環を少しでも作る意識的努力をし、(来るのかは分からないけど、)赦される日に備えようと思う。 それが俺の生きる責務。
全く何に対しても無気力状態です。
俺は躁鬱病なんじゃないかと最近疑っている。 思い返せばこれまでの人生、常に、躁と鬱のサイクルがあったように思う。中間に位置する時期がまるでなく、常に躁か鬱状態であった気がする。 もちろん、程度の差こそあれ、多くの人は、躁鬱併せ持っていると思うが… 躁の時の自分は、とにかく寝ない。気分が昂揚して雄弁になる。そして、自分でも信じられないくらいの行動力を見せる。 しかし、一旦、躁が切れると、再度、ひどい鬱期に入る。 そして、また何かの拍子に躁がやってくる。 といったスパイラルがどうもある気がする。 ちょっと医者に相談だな… どうも、睡眠薬を飲むと、変な理性のリミッターが外れるのか、極めて躁の時に近い精神状態になって困る。 朝になって、自分が夜に書いたらしい記事を見て愕然とする。 何だこの恥ずかしい文は。 何だこの壮大な文はと。 何だかなぁ、自分でも自分のことが、まるで分かりません。
とりあえず、気を紛らわすためにも、最近読んだ本のレビューでもしておこう。
最近は、10代の頃のように一字一字に食い入るようには、もう本とは付き合えなくなっている。 結局、そこから学べることや、救われることも、まぁ色々あることも知ってるんだが、でも、自分のことは、やっぱり自分の力で解決するしかないってことにも気付いてしまったからだ。 だから、最近の読書は、まずは娯楽目的半分に、(可能な限り)自分が楽になりそうな言葉や世界観、考え方だったりを見つけるための、まぁ方法論探し半分である。 さて、やや脱線したが、田舎で、二冊の本を買った。 一冊が、東野圭吾の『夜明けの街で』 不倫がテーマの話。そこに、ミステリー要素が絡んだという話で、まぁ、なかなかに壮大で面白かった。 とりあえず、人間は性の前では、あまりに無力で、理性が到底太刀打ち出来ないのがよく分かった。 しかし、その過ちを、いかに内省するかがテーマでもある。 人は過ちを必ず犯す。 それを前提にするならば、少し気楽にもなるが、要は、じゃあ犯してしまった罪に対して、どう向き合って償うのか。そこがテーマだよね。 あと、大崎善生の『スワンソング』を。 これは、まぁ、大崎善生らしい筋。 少し悲しい話ではあるが、愛と憎しみは、本当に表裏一体なんだなぁと、しみじみ痛感。 だから、俺は愛が怖いんだよね。憎しみを必ず内包しているから。 俺は愛が怖いよ。 とまぁ、やや収拾が難しくなってきたが、この二冊は割にすんなり読めた。 最近、著しく活字離れしてたし、何かイマイチ没入できないんだけど、結構すんなり読めた。 次は、川上未映子の本が、いくつか文庫化されていたので、そのあたりを読んでみたいと思う。 結構独自な世界観がある作家さんみたいだし、感受性に、これまで未体験な刺激をもらえることを期待している。
そう、王道はない。
愚直かもしれないが、結局は生き続けるしかない。 性急さを求めるな。 機は必ず熟す時が来る。 だから、生き続けることそのものに意味が見出だせる。 まだまだ、やり残したことや贖罪を腐る程する義務がある。 権利だけを吸い付くして、義務を果たさないのは、ダメだろう。 こんなんで死んじまったら、絶対浮かばれない。 生きることは、集約したら、赦し赦されることかもしれんなー。 まぁ、何となくだけど。 愛だの憎しみだの、有罪だの無罪だの。正義だの悪だの。まぁ色々とあるじゃない。 でも、それらは単にツールでしかない気もするんだよね。 人が…少なくとも俺は、それらツールを使って、赦し赦されることを学びたい。 学びたいっちゃ変か。赦したいし、赦されたいのだ。 そうすりゃ、すんげぇ魂が癒されるというか、満たされる予感がするんだよね。 魂が癒されているとか、魂が満たされているっていう状態こそが、今求めてるもんだ。 でも、先にも述べたが、これは暫定的な自分の結論である。疑うべきである。少なくとも、絶対的なモノではないことは自覚するべきだ。 今に占拠されてしまうと、過去も未来も見失う。 柔軟に悩もう。柔軟に。 逃げかもしんねぇけど、撒き散らしたり、蓋をしたりすることも方法論だ。 綺麗事だけじゃねぇんだから、この世界、人が作る世界は。 そして、人生はオセロじゃない。 白一色に全部出来たら、そりゃあ気持ち良い。 しかし、現実問題、多分、それは無理だ。 黒の部分もある。角がもはや黒かもしれん。 しかし、白一色に出来ないからって、それが悪いことではないだろう。 トータルで灰色かもしれんが、それを少しでも少しでも、白にしていけば良いんじゃないかな。 苦しいとは思う。 でも、その苦しさから、俺は逃げたくはないな。 体裁を誤魔化せたり取り繕えたり、あるいは、逃げることも出来る。 でも、そういうのが長くは続かないことも知っている。 どんどん自分の中で増殖していくんだよな、そういうのって。 だから、何かくどいけど、自死することは逃げだ。 生きろ。そして苦しめ。それがまず、最低限の責任だ。 |
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