もう納豆について語るくらいしか、僕に出来ることはない…などと思っていたが、もうそんなんは沢山。
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ベースはやっぱり家。家庭。
いつだかも言及した気がするが、「帰ることが出来る場所があるからこそはじめて、旅は旅として成立するのだ」と。 もっと自分に自信を持ち、幸せを受け入れる力を持つ自分を作り、やっぱりいつかは家庭を持ちたい。 まだまだ経済的なことは勿論、むしろメンタル的な部分で課題は多い。 しかし、「完璧にしてからじゃないと先に進めない思考」みたいな発想が、そもそも破綻したロジックなので、不完全でもそれでも前へ。完全を志向しつつも、そんな境地は、当たり前だが勿論無いので、とにかく一生懸命生きろ。 生きていく過程で幸せになっていくしかないだろ。明日死ぬとしたら、今日までの日々はじゃあ何なんだってことになるだろ。 PR
昨日は、地元の友達と名栗にキャンプに行ってきました。
名栗の一番深い場所にある、お気に入りのキャンプ場へ。 ここ最近の週末は、結婚式のお呼ばれ続きで、なかなかタイミングが取れなかったことと、何より懐事情的に、大人しくせざるをえなかったので 笑、昨日は久しぶりに好きなアクティビティに浸れて幸せでした。 酒を大量に買い込み、いつもの「ザックリ鍋」を煮込む傍らで、肉を焼いて食らう。 良い時間が過ごせれました。 そして、人が寝静まった頃合いから、夜釣りスタート開始。0時くらいから笑 ウェーダーを履き、ヘッドライトを装備。「釣りとかよう分からんわ」みたいな人達からしたら、完全に不審者扱い不可避なことはさて置き、とにかく突入。 マムッシーが若干怖かったが、なんせお互い、程良くお酒を飲んでいたので、結構ザックリしたテンションで釣り下がる。(テン場が再上陸付近だったため) ビギナーの友達に「ココはまぁくるっしょ」的なポイントを譲り、自分は水深50cmくらいの渋い流れを丹念に探り釣っていたのだが、引っ張られて「アレッ」と思った刹那、「ゴツッ」とくるアタリが到来。 「これはヤマメのアタリじゃないし、ニジマスみたいに雑でもない。ん?ひょっとして…いやいや、まさかねぇ…(いやでもこの感じは…!!)」などと淡い期待を馳せながら引き抜いたら、やりました、イワナでした。 25cmくらいの綺麗なイワナで、この魚体を手にした瞬間、僕の中で満足のK点超えました笑 つまり、釣り終了です。 写真を何枚か撮った後、野ジメし、後はひたすら友達の釣り補助。 せっかく来たんだから釣れてほしいと「ややガチ」なレクチャーをしつつ笑、仕掛けも糸を0.4号にしたり0.8号にしたりとポイントに応じた工夫をこらしながら、2時間程付き添い時刻は深夜2時、泣きの一回で、ようやく友達もニジマスが!! 本当に良かったです。何だろう、確かに渓流釣りは、慣れるまでは少しだけ難しい部分はあるにせよ、「どうせ釣れない」→「だから、やっぱり俺は釣りはもうやらない」みたいにはなってほしくなかったので、いやはや、本当に良かった! んで、早速下準備をし、じっくり遠火で塩焼きにして、バランタインを傾けながら、互いに捕また獲物を肴に火を囲みました。 めっちゃDNAが刺激されて、本当に充実感でいっぱいでした。 んで、帰りはさわらびの湯で、いぶされた身体を浄化し、漸増的に都会色が濃くなっていくあの感じ、何故か毎回ウンザリしてしまう、「いつもの帰り道」をゆるりと下り、そしてまた何故か、「軽く蕎麦でも」からの爆盛りで有名な「古都」に突撃という全く意味不明な展開になり、結果は撃沈して、ヨタヨタしながら帰りました笑 いやぁ、何はともあれ、久しぶりに自然の中で自然に振る舞い、自然にある獲物を捕らえて仲間とシェア出来た喜び! これに勝るスパイスなどそうあるまい。楽しかった!
昨日は里山資本主義の著者である藻谷浩介さんの講演に行ってきました。
たまたま上手いこと地元の産業文化センターにいらっしゃるとのことだったので、「これは行かねば…」と。 講演を受け、自分の求めているモノを再確認且つ、再確信出来ました。 つまり、人との繋がりです。 東京のど真ん中の高層マンションで、左右両隣に住んでいる人のことさえ知らず、何の地域コミュニティにも属さずに、ただただ資本主義に取り込まれて死ぬとか、考えただけで恐ろしい。 アナログかもしれないが、やっぱり地域に根を張り、頼り頼られて生きていきたい。
今話題の、里山資本主義を読んで、改めて思ったことだが、やっぱり僕が、自らの人生に求めていることは、従来の「マネー資本主義」の中には見当たらないなということだ。
人間の際限の無い欲望と資本主義は相性が良いのは確かだが、人間には理性がある。だからこそ、「資本主義のやり方とあえて決別する」という選択をすることも出来る。 僕が人生に求めることは、そう幾つも無い。そして、それは資本主義的なやり方を介さなくても十分に実現出来ることだし、むしろ資本主義はその足かせにさえなる。 数の多寡ではなく、お互いに、頼り頼れることが出来る仲間。家族各々の幸せ。そして、自分の問題意識に沿った行動を、微々たる範囲内でも構わないから、とにかく取り続けること。実際、この3つがあれば、他に何もいらない気がする。 勿論、生きていかなくてはいけない。 しかし、今のマネー資本主義にどっぷり染まらないと生きていけないわけでは決してない。 こちらから三行半を突き付けて、僕は生きていこうと思う。 母方の祖父に習ったことだけでも、正直な話、生きてはいける。 具体的には、渓流釣り、食べられる幾つかの野草の知識と山芋の掘り方。鳥の捕まえ方と捌き方。 効率は確かに悪いが、別に効率が幸せには直結はしないということに改めて気付くべきだ。 スーパーに陳列されているニジマスや鮎を買って食べても、確かに美味いとは思うが、そこに感動はあまり無い。 しかし、自分で釣ったニジマスや鮎ならば、そいつを己の力で捕まえてきた自分への自信と高揚感という、「最高のスパイス」が加味されるので、味が全然違う。 そして、出来ればそれを仲間とシェアしたい。獲物は勿論、どちらかというと気持ちをね。 文脈は今日も無視。とにかく、自分がこうだと直感的に感じることを、迷わず選んでやれば良い。この道が王道とか、人が多くいるからここは安心、みたいな生き方やめたい。てか、やめよう。勿論、全面的には難しいだろうから、まずは出来そうな所から。
今のオトナは、子ども達に「狩りの仕方」を示せていないんじゃないかと思う。
確かに、情報化が進展し、働き方や生き方も多様化はしている。だからこそ、何を伝えたら良いのか分からない部分があるのは確か。 更に、変な部分だけ(主観的にはそう感じる)個人主義化が進み、都合が良いことはともかく、悪いことでさえ「自己責任」という言葉に落とし込んで、我々は当事者になることから逃げているように思える。 しかし、どれだけ生き方なり価値観なりが多様化しようが、どれだけ個人主義が進展しようが、それでもやはり、オトナは子ども達に対して、「狩りの仕方」を教えてやらないといけないんじゃないかと思う。 それこそ、本当に「狩り」を教えてやっても良い。狩猟免許を持ってるオトナが、鹿なり猪なりを狩る方法を教えてあげたり、漁業従事者が、「サカナの捕まえ方」を教えてやるのも良い。アウトドアが得意なオトナなら、食べられる野草の選別の仕方や、ヘビや野鳥の捕らえ方を教えてやれば良い。 まぁ、上記は極端にしても、それでも子ども達が「生きのびていく」ようにしてやるために、オトナに出来ることは多々あると思う。 狩りの仕方が多様化してんなら、それぞれの持ち場で身に付けたスキルを、是非、「狩りの一方法」として示すこと。 何でも良い。とにかく、当事者意識を持って、子どもに示すこと。教えること。 そういう意識が限りなく薄れている気がする。 ロールモデルを示すのが、きっと次世代への責務だ。 自分さえ良ければそれで良くは…ないだろって話だ。 |
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