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もう納豆について語るくらいしか、僕に出来ることはない…などと思っていたが、もうそんなんは沢山。
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これが自分にとっては重要だったのだ。

例えば、勉強なんてしたって、大人になってから意味無いじゃん的な耳タコな発想があるが、少なくとも日本社会に於いては、勉強は相対的な価値を持つ。

就職するに際しても、学歴フィルターなるものが、大っぴらには語られないが、それは確かに存在するのだから。公務員の世界にしてもそうだ。T大閥やら、C大法学部閥やら、表向きには公平な選抜試験でさえ、その内実は勉強歴を問う。くそ下らないが。

つまり、相対的には勉強に価値がある。ふつうに、意味不明なFランの学生を見ると、うわぁと思うし、T大やらK大やらの学生に対しては一目置くからね。

そういうことなのだ。

しかし、それは絶対的ではない。

確かに、ある程度、相対的には価値を持つが、勿論それは絶対ではない。

人間が他者を介さないことには己を知れないことに鑑みれば、相対的な視点は死ぬまで払拭出来ないが、それでもあるでしょ、何つうか、相対的な価値が一瞬で無価値化するような時が。

無条件でリスペクトの対象になるような行為なんかが典型例か。

この辺り、相対的な価値判断から逃れられない自分を認めつつも、絶対的な価値を必要あらばいつでも惜しみなく発揮出来る人間になりたい。

見栄を張る。他者と比べる。

そりゃ仕方ない。

しかし、それが全てではない。

自分の中に、神を持て。

審級を下す者は神的な何かだ。

人の中に生きるには相対的な目だが。

この辺りを上手くやれ。

相対的にも満たされるように、絶対的な何かを目指そう。

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久々に心底悔しい思いをした。

そりゃ人並程度のことは、選ばなきゃいくらでも出来る。

明らかクソな連中も、人並にやれてるんだから、自分にやれないワケがない。

一旦また思考止めよう。キレモードに突入。
意味を求めるな。暫定的な必要性のみが価値だ。

そんな世界に生きている。気付くの遅くて超ソーリー。
多感な時期に差し掛かる一歩手前、少年時代と青年時代を隔てる、まさに分水嶺にあった頃、僕は北海道で日々を過ごしていた。

一年の約半分が雪景色という、今思い返してみると、なかなかとんでもない環境下にいたのだが、あの頃はそれが当たり前であった。雪は日常のごく一部であり、雪を前提としたあらゆるが、自らの生活に組み込まれていた。

今日、そんな北海道時代の友達が結婚した。

あいにく、関東地方はこの有様で、残念ながら式には出れなかったんだけど、幸せになってほしい。

絶対的な幸せは無いかもしれない。生きている間は、相対的な尺度から逃れることは多分不可避だ。

それでも、死ぬ前だか死んだ後だかに、幸せだったと思えるように生きていってほしい。

何故なら、僕はあの頃、確実に幸せだったから。絶対とか相対とかじゃなく、ただただ、もうそれは、本当に幸せだったと思えるから。

そして、多分、君もそうだったんじゃないかなと思う。

そんな、奇跡のような時間を一緒に過ごせた友達は、やっぱり良いもんだと本当に思う。

僕も歳を取り、年々つまらない人間に成り下がっていく一方だし、きっと、後年には下らないと、笑止されること請け合いな事柄について、ああだこうだと悩み散らかし、ただただ、今日を食んでいるだけ。

でも、そんな今の自分でも、君をはじめ、実は皆の幸せを願う自分がいるのもまた確か。

本当は面と向かっていつだって、本音を言えば良いんだろうけど、そんなに人間、平素から素直になれる程強くはないことも学んだ。

まぁ、ここは誰も見ちゃいないから素直に言おう。僕は君が想像している以上に、君に感謝し、そして、君が好きだ。一緒にバカふざけをしてはしゃぎ回った日々は宝物だ。

そんな宝物を紐解いてみると、やっぱり雪はいつもそこに在った。

幾度となく一緒に帰った帰り道。嬌声を上げながらボールを追った日々。お互い、巨大なニジマスを釣った日、そして、何気ないやり取りの数々。

その何れにも雪のある景色が見える。

雪は儚い。掌に収めた刹那、水となり消える。

少年時代は雪景色。

もう水となり消えた時間だが、まだ掌は少しだけ雪の温度が残っている。

冷たいんだけれど、それを実感する気持ちは温かい。俵万智かよって話だね。

と思う。

一般論に振り回され過ぎると、自己乖離的になり、自分の声が聞こえなくなる。

確かに、一般論にはそれなりの普遍性があるが、得てして、その普遍性を有難く思う瞬間など限定的で、特異な何かと己を比較した際に、「あぁ、やっぱりこれで良かったんだ」と胸を撫で下ろす時くらいなもんで、大抵の場合、普遍性を選んだことによる恩恵どころか、それを選んだことにさえ無自覚で、平素はむしろ認知されることもない。

色んな普遍性がある。

いちいちの意思決定なり立ち振る舞いを普遍性で染めたら、そいつは反吐が出るくらい楽に違いない。

僻んでいるワケじゃないが、そういう風に自己決定出来る人は、ある意味羨ましい。

セーフティーな場所、セーフティーな身分。セーフティーな社会的信用にセーフティーなアイデンティティ。

そして、セーフティーな立ち位置から繰り出されるお言葉には、もう太刀打ち出来ないくらい、薄っぺらくも妥当性があり、僕みたいな木偶の坊は、ただただ、はぁ、等と、要領を得ない小さな嘆息を洩らすくらいが関の山である。

しかし、僕は一般論的な多数派の脆さや欺瞞にもまた気付いているので、残念ながら、君達の後光が射すお言葉には、こころの中では中指を立てざるをえないし、その根拠がありそうで実はまるで中身の無い正論には吐き気がする。

だがら、自分が道から逸れて阿鼻叫喚した中で見えたこと、それでも生きる力になったことだけを、誰に何と言われようとも、ただただ信じ、全うすれば良い。



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