もう納豆について語るくらいしか、僕に出来ることはない…などと思っていたが、もうそんなんは沢山。
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もう分かってる、見えているんだったら信じること。正確に言えば、信じ続けることだ。
もう昨今、従来の価値観なんてとっくのとうに崩壊してるんだから、そんなものに今さら後ろ髪引かれているようでどうする(笑) そりゃあ、自分で価値創造していくのは辛い。多くの人がいる道を歩きたいと思うのは、こりゃまぁ多少は致し方ない。 しかし、もうそういう時代じゃないっしょ(笑)? 変えていくのは自分達だ。 信じ続けること。その力が一番大事。 思うことや考えることは容易い。 大切なのは、それを信じ続けたその先だ。 自分を信じろ。 PR
簡単な話だ。
突き詰めたら、「今、何を求めているか」が答え。 その欲求の出所に意味を求めることは愚だ。「それが欲しい」んだから、そりゃしゃあない。 だから、理性で嘘付かないことが大事だね。 後付けで、いくらでも誤魔化せたり、正当化出来るんだけど、そんなんは虚しいからね… まぁ、極力にはなろうが、選べる限りに於いては、ただ欲望のままで良い。 「自分らしさ」とは、「欲に素直」と言い換えても良さそうだ。
まぁ、そんな世代みたいです。詳しくはググって下さい。
リトルピープルの対比概念としてビッグブラザーなんてのがあるらしいけど(こちらもググろう!)、確かに、もう僕たちに共通する「敵」なり「壁」はないのかもね、確かに。 個人個人が、「敵」なり「壁」を見つけていく時代だ。 もっと言えば、価値判断や善悪基準も個人次第。コンセンサスとしての尺度に、もうあまり意味はない。 なかなかタイトで孤独な時代だけれども、ある一方では、より自由を手にしたとも言える。自由に孤独は付き物だ。そんなことは、漱石の時代から叫ばれているワケだし、特段、驚くこともない。 個人の価値を最大化したところで、その価値で救える何かなんて、ごくごく少ないのかもしらんが、まぁ、これは、多寡に踊らされずに、「オリジナリティが活かされた喜び」みたいな所に、価値を見出だした方が良さそうだ。 そう、目に見えないことだって、日々刻々と変わっているのだ。
まぁ、主体性をもって生きるには、当たり前だけど、主体的に生きるしかない。
この世界は偶発的で不確定な要素だらけだけれども…つまり、突き詰めたら基本的には人間は「受け身」の存在だけれども、そうであるなら逆に、少しでもコントロール可能な事柄については、しっかり舵を取らなければいけない。 僕は、もう何年も何年も同じことを言っている気もするし、実際、やっている。 つまり、アタマでは理解出来ていることが、なかなか実践出来ない。だから、ストレスが溜まる。同じ場所から動けない。 しかし、もう良い加減やめたら?人生は短い。もっと言えば、相対的にエネルギーに満ちた「若者」でいられる時間はもっと短い。 取捨選択が大切だ。全てに良い顔をすることは不可能だ。(しかし、なぜ、全てに良い顔をする必要があるのだろう…) 僕は怖かったのかもしれない。人から嫌われることが。 それは認める。 また、ある程度、「万人から受ける」ように世の中に合わせなきゃと思っていた節があることも認める。 そう思った背景に、生育歴や、まぁ、思考の歪みはあったにせよ、ムダなモンはムダである。 つまり、もう余計なことはしたくない。 良い人、良い顔がデフォになると、割と他人から「良いように」扱われる。 「アイツは優しいから、これくらいムチャ言っても大丈夫」みたいにね。 もうそういうのはやめにしませんか? 俺はもう疲れたよ。息苦しさも限界だ。 そういうのを続けることも勿論出来るんだけど、もう何ていうか「やりたくない」。僕は僕を生きたい。 人の目とか評価とか「誰にでも公平に」とか、もうそういうの、うんざりだ。 主体的に生きたい。自分が思うことを、ある程度思うままに発露してみたい。 そこがスタートラインだな… 技術としての「良い顔」は、まぁ一技術として評価もしたいけど、それはまぁ…今日限りやめてみませんか? 不毛でしょう。あなたが一番よく気が付いているはずです。
は、考えなくても良いんじゃないかと思う。
と言うか、大抵の人は、本当に切羽詰まったり追い詰められたりしないと、考えなくても良い部分については、特に「深刻には」考えていないはずである。 例えば、自分も含めて健康でピンピンしている若い奴は、三大疾病やその医療費について深刻に考えてはいないと思う。 いずれは、そういった疾病に絡め取られる日は、恐らくやって来るのだろうが、それでもやはり、どこか他人事。当事者意識はない。 また、親がある程度若ければ、彼らの介護や末期ということを思いこそすれど、特にアクションはしない。 これもまだ、近くて遠い当事者ではないからだ。 つまり、人は当事者にならないと深刻になれない。 そう遠くない未来に、恐らく訪れることが分かっていても備えられない。 そして、恐らく、備えなくても良いのではないかと思う。 何だろう、備え過ぎたら、楽しくないから。今が楽しくなくなってしまう。 まぁ、そりゃあそうだろう。 愉快とは良い難い未来に備える行為が、楽しいはずもない。 人間、「老病死」からは、基本的に遠ざかった場所にいたいという本能?みたいなのがあるからね。電車で咳き込む他人がいるだけで、どことなく不快や不安な気持ちになる。 そう、僕らは備えられないし、備える作業をするのも辛い。 しかし、それはいつかやってくる。 でも、当事者にならないと、それは出来ない種類のものかもしれない。 だったら、今を生きることだ。 「何の障害もない時期」 などというのは、実は人生の中の刹那であるかもしれないのだから。 |
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