もう納豆について語るくらいしか、僕に出来ることはない…などと思っていたが、もうそんなんは沢山。
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
は、考えなくても良いんじゃないかと思う。
と言うか、大抵の人は、本当に切羽詰まったり追い詰められたりしないと、考えなくても良い部分については、特に「深刻には」考えていないはずである。 例えば、自分も含めて健康でピンピンしている若い奴は、三大疾病やその医療費について深刻に考えてはいないと思う。 いずれは、そういった疾病に絡め取られる日は、恐らくやって来るのだろうが、それでもやはり、どこか他人事。当事者意識はない。 また、親がある程度若ければ、彼らの介護や末期ということを思いこそすれど、特にアクションはしない。 これもまだ、近くて遠い当事者ではないからだ。 つまり、人は当事者にならないと深刻になれない。 そう遠くない未来に、恐らく訪れることが分かっていても備えられない。 そして、恐らく、備えなくても良いのではないかと思う。 何だろう、備え過ぎたら、楽しくないから。今が楽しくなくなってしまう。 まぁ、そりゃあそうだろう。 愉快とは良い難い未来に備える行為が、楽しいはずもない。 人間、「老病死」からは、基本的に遠ざかった場所にいたいという本能?みたいなのがあるからね。電車で咳き込む他人がいるだけで、どことなく不快や不安な気持ちになる。 そう、僕らは備えられないし、備える作業をするのも辛い。 しかし、それはいつかやってくる。 でも、当事者にならないと、それは出来ない種類のものかもしれない。 だったら、今を生きることだ。 「何の障害もない時期」 などというのは、実は人生の中の刹那であるかもしれないのだから。 PR ![]() ![]() |
カレンダー
フリーエリア
最新コメント
[01/22 納豆太郎]
[01/11 Animepeu]
[05/12 P氏]
[05/08 ✿]
[02/03 orderuclicemi]
最新記事
(12/06)
(07/03)
(06/15)
(05/09)
(04/16)
最新トラックバック
プロフィール
HN:
No Name Ninja
性別:
非公開
ブログ内検索
P R
|