もう納豆について語るくらいしか、僕に出来ることはない…などと思っていたが、もうそんなんは沢山。
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逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。
結局、自分を日々、鼓舞して、自分に勝っていかないといけない。今のままじゃ、俺は何処にもいけないし、何も掴めない。 挫けそうな瞬間や、黒歴史に占拠されて悶絶しそうになるさ。 でも、それらに屈服なんかしたくない。 俺は俺を生きる。俺は俺を信じる。俺なら出来る。全部必要な試練だ。 なかなか良い塩梅の試練を神様は授けてくれた。 むしろ、ありがたいことかもしれない。 くそったれ!俺は俺には負けねえかんな! PR
人を呪わば穴二つ。
本来のニュアンスは、「誰かを呪うには、その相手方の呪いがえしのリスクがあるので、穴二つ掘っとけ」 みたいなニュアンスだと思うが、ここでいう「人」とは、「自分」も該当するのではないかと思う。 つまり、自分を呪うAという自分と、呪われるBという自分だ。 AがBを呪わば、Bからの呪い返しがある。 その場合の「穴二つ」に入るのは、AB両者の「自分」に他ならない。 自分を愛そう。自分くらい、自分で愛してやらなきゃ、せめて。 今日、また別件で、僕を呪っていたであろう人間から、和解の連絡がきた。 僕は正直、彼の狂気を怖れていた。 彼は受験生だが、もし万が一彼が受験に落ちていたら、リアルに、僕は、殺されていた確信がある。あるいは、家族も殺されるとかね。 勿論、ギャグじゃなくてマジで。 それくらい、紙一重の状況に彼はあったと思う。 しかし、僕は呪いをかけられてこそいたが、本質的には、彼のことが嫌いではなかった。むしろ、どちらかというと好きだと思う。 それは、要因や背景は異なれど、「一昔前の自分」と類似しているから、気持ちが分かるのだ。 まぁ、これだけは暫定的であるが、確信を持って言えることは、僕は何があっても、人は殺さない。 人を殺すくらいなら、自分を痛めつける。 しかし、先に述べた、人を呪わば穴二つ理論だ。 私Aもまた私Bを呪い、私Bも私Aを呪い返していた。 だから、本質は極めて類似していると言わざるを得ない。 単に狂気を吐き出すベクトルの差異に過ぎない。 キリスト教ではないが、自殺は自分に対する殺人だからね。 だから、憎めない。 本質的には似ている気がするから憎めない。 それに縁があったのであるとも思える。 可愛がってやるか、仕方ない(笑) 上から目線なのは、俺が歳上だからに決まっている。 しかし、油断も禁物だ。絶対的和解などない。暫定的な和解だ。 だからこそ、警戒は尚必要不可欠。申し訳ないけど、そこまで信用は出来ない。 まぁ、時間をかければ、少しは和解の質も上がってくるかな。 それを信じるか。
今日は三宅島に出ていた、北海道時代の友人と久しぶりに会う。
長い充電期間を経て、少しは気持ちも切り替わったのかもしれない。またこちらで、新しく生活を始めていくようだ。 新しい彼女も出来たようで、傍目には上手くいっているように見えるのだが、やはり、彼が抱える本質的な寂しさが、時折顔を覗かせる。 「俺には家族がないから家族が欲しい」 「ふつうの幸せが欲しい」 と。 こればかりは、俺にはどうすることもできない。 そして、彼も俺に何かして欲しいとは思っていないと思う。 無力感だけが募る。 明るくあろうと、精一杯虚勢をかまして堪えているのだ。それが分かるだけ、余計に悲しい。 人のことを理解することは不可能だ。同情やシンパシーを抱いたところで、ただそれだけだ。 ただ、彼の持つ多面性の、いくつかについては、理解出来ているつもりだ。 相互の完全な理解などというものは望めないが、お互いが、総体としての互いの存在を、何だかよう分からんけど、少なくとも互いに必要とするのなら…相互理解なる桃源郷の余地はまだあるし、結局のところ、そうやって時間をかけて、互いを知るプロセスこそが、「友達という関係」なのかもしれない。 まぁ、もっとも、こんなことを考えてこねくり回したところで仕方がない。 付き合いたいから付き合うで良いじゃないか。以上。
つらつらと考えたこと一覧。
【レッテル付けやパッケージ化思考をやめる】思考停止を招くから。 あらゆる事象は多面的。よって、あらゆる事象を「理解」することは、原則として不可能。しかし、そうは言っても、物事を判断していかないといけないので、少なくとも、多面性を意識すること。切り口を1つでも多く持つことが大事。そして、その判断は、常に暫定的なものでよい。つまり、留保付きの答えでオッケーってこと。むしろ、断定して思考停止に陥るよりか、はるかに、そちらの方が健全。 【自分を自分で勝手に評価しないこと】むしろ、自分など実はいないということを意識しよう。自分は、あらゆるシーンで色んな顔を持つ。その全てが自分であると同時に、その全ては自分ではないのだ。先の物事の多面性についての考察と一緒で、自分だって多面的なのだ。「これが自分」なんて「自分」などない。あくまでも、「自分という総体の中の一部分に過ぎない自分」でしかないことに注意。 【理性偏重主義を見直す】理性は万全ではない。遺伝子情報やシックスセンス的なモノに委ねても良い部分が、きっと沢山あるはず。幸せは、理性のみがもたらすのではないのだ。 【感情を疑う】感情には可塑性がある。そして、発展性もあるように思う。よって、暫定的な現在の感情に振り回されるのは、ある程度は仕方ないにしても、あまりに振り回され過ぎるのは愚かなことである。 【感情を切り替える意識的な努力も必要】感情は外的環境に左右される部分も多々あるように思う。例えば、ちょっと人生イヤになっちまったなぁと悲嘆していた次の瞬間、たまたま通りかかった外国人に、「スミマセン、ワタシ、シンジュクステーションニイキタイノデスガ、ミチワカリマセーン」と尋ねられ、必死で道を教えた後、道を尋ねられる前と同じ感情かどうかを確認してみよう。恐らく、少し違うはずだ。こういった偶発的なことは例外としても、つまり、外に飛び出せば外的な刺激によって、感情にも刺激が加わる。その刺激の力を借りて、感情を変えることは、きっと有効な作戦だと思う。 【絶えず「新しいこと」を追い求め続ける】 別に何だって良いんだけど、自らの生活に常に「新しいこと」を取り入れる。つまり、自分の持つチャンネルを増やし続けるのだ。自らの硬直化を防ぎ、興味や趣味、考え方の一極化を防げるはずだ。 【完璧主義をやめるかわりに完璧ペシミズムもやめる】 あらがあるから人間だ。綻びがあるから人間。欠点のない人などいないし、悔い改めたくなる過ちを、過去に一度も犯さなかった人はいないはず。 十字架にして背負っていくのは仕方ないにしても、それに囚われ過ぎないこと。反省し過ぎて今を真っ黒に染めるのは馬鹿らしい。生きてくうちに、きっと何とかなっていくもの(だと信じたい)。一生を振り返る反省は、死の間際にすればよろしい。罪悪感からくる補償行為もほどほどに。 先の話ではないが、自分は多面的な存在なのだ。Aという自分は悪いヤツでも、Bという自分は良いヤツじゃないか。同様に、Cという自分もまぁまぁ良いし、Dという自分も捨てたもんじゃない。だから、トータルで見たら、そんなに自分は悪くない、といった意識を常に頭の片隅に置くことだ。そう、大切なのは、「トータルで捉える視点」だ。思考停止・感情溺死を招かないためには、この視点が何より大切。
特別区、残念ながら、感触がイマイチでした。
いや、イマイチなんて不適切な表現だな。 もう、はっきり言うと、自分がやってきたことの分しか実力は発揮出来なかった。点数は嘘をつかない。 やっぱり、迷いが常にあった。 NPOでもなんでも、形を問わず、やりたいことが見えているにも関わらず、つまらない世間体とか、「枠にはまりたい」とか安定とかいった要素を、どうしても無視出来ない自分もいて、その二律背反で、いつだって揺れていました。 だから、形式上、勉強はしていたけど、どこか上の空だったのも事実。本気で熱くなりきれていなかった。 でも、特別区の試験の後に、やっぱり目が覚めた。 もうここまできたんだし、後戻りするのは情けなさ過ぎる。先のことなんて考えても仕方ない。 まずは、試験をやっぱり片付けてしまおうと決めた。 それは、曲がりなりにもここまでやってきた自分がいるから、後に引けないという部分もあるけど、やっぱり僕は、枠が欲しい。一回は、「よくある社会」で生きてみたい。 まずは、そこから始めることに方向を切り替えた。そこから始めようと思う。 昨日味わった自己嫌悪は、自身の中途半端さに対してだ。 中途半端は嫌だ。本当に格好悪い。 僕が一番嫌悪している自分は、この中途半端さだ。 熱くなれよ。動機なんていらないよ。俺は今の自分が、本当に嫌いだ。 嫌いなら、これ以上嫌いにならない自分を創出していくしかないだろ。 |
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