もう納豆について語るくらいしか、僕に出来ることはない…などと思っていたが、もうそんなんは沢山。
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人生における「つまずき」のかなりの部分は、得てして、その契機は取るに足らないモノだと思うし、きっかけさえ掴めれば、大抵はリカバリー可能だと考える。
多様な道なり価値観なりは、残念ながら、この日本社会はまだ根付いていない。一本の太いレールがあって、そこに居続けることが是となり、それ以外は非となる。そんなんだから、子どもから大人まで、そこから振り落とされないことに必死だ。こんな社会が成熟した社会な筈もない。 イジメられて若くして死ぬ子ども。 きっと、周りの大人が、他の学校に転校させるなり、休ませるなりの代替手段を提示出来なかったのだろう。また、本人もそこが、世界の全てと思い込んでいたのだろう。残念なことだ。 実は他の手段は沢山あるのに。 確かに、ダイバーシティは無い社会だけど、自ら追い詰められて死ぬような事態は回避出来る「術」はある。 いきなり多様性は育たない。この国は出る杭を打ち、村八分をすることにより、同質性と均質性を保ってきたのだ。 しかし、「術」はある。残念ながら、この「術」は、レールから降りる決心が付かないと見えてこない。 そう、やはり一回、レールから降りて客観的に社会を俯瞰する必要がある。さすれば、どれだけ馬鹿馬鹿しい茶番に生きていたかに気付くはずだ。 自分の声をきちんと拾い、こころを傾聴する。まずはそこから。 どんな状況にあっても、自分を尊重出来る自尊心を持つことが何よりも大事だ。それさえあれば、あとは勝手に「きっかけ」は生まれるだろう。また、得てして、良いセルフエスチームの状態にある時は、良い循環に組み込まれやすくなる。 まぁ、何かね、レールなんてそろそろ捨てたら(笑)?と割と真剣に問いたい。誰しもがこの茶番にうんざりしているんだから。少なくとも歯車の奴は… PR
先日、NPOのボランティアの学生が、こんなことを言ったらしい。
「ここは居場所ではなく、溜まり場になっている」と。 一応補足しておくと、自分がコミットしているNPOは、不登校やひきこもりの子ども達を対象に、居場所支援という事業を行っている。場所を開放し、そこで大学生のボランティアスタッフが中心となり、子ども達と話したりゲームをしたり、部活動として、各人の関心に応じた課外活動に取り組む。 しかし、現状では、それは居場所ではなく溜まり場にすぎないという。 改めて考えてみよう。居場所と溜まり場は、一体何が違うのか。 まず、自分がイメージするのは、居場所には無条件というニュアンス。つまり、そこに属するのに何の資格もいらないこと。強いて言うなら、あなたがあなただから参加資格あります、みたいな感じか。 一方、溜まり場には要資格なイメージがある。 例えば、ヤンキーの溜まり場に集うためには、ヤンキーであるという資格が必要だ。また、趣味の溜まり場に集うにも、その趣味が好きだという資格がいる。つまり、溜まり場に参加するには、何らかの、コミットのための条件があり、それを充足する必要がある気がする。 つまり、溜まり場にはどこか、場所が人を選ぶ側面があるが、居場所にはそれが無い。 居場所は、言うなれば公共スペースというか、家族的な繋がりみたいな感じか。(まぁ、色んな家族があるんだが) そこにいるのに資格を必要とせず、ただ開かれているというか。場所が場所としてただ在り、個人が個人としてそこに集っても良いんだ、みたいなイメージ。 そう考えたら、居場所には溜まり場的な側面は無いのだが、確実に溜まり場的なニュアンスをも包む寛容さがあり、溜まり場よりはワンランク上等な代物だ。 よって、居場所は溜まり場をも超越する場所であるので、溜まり場だろうと認識されていても、こちらが居場所だと定義する限りに於いては、そこは居場所なので、何と言うか、問題は無かった。
こう言い換えたら、何だか気楽にもなる気がする。
別に、いわゆる無目的的に生きるようなことも、全然批判されるようなことではないということだ。 まずは生きることが第一で、何よりの目的だ。 恵まれた社会の中にいると、この感覚がバカになって、つい、色々とつまらないことを考えてしまう。 まずは生きること。というか生きること。生きる過程で何かが必要だと思うなら、そいつを信じれば良い。何というか、逆は無い気がする。 何も持たずに山に3日程籠れば、きっと、よりこの言葉の意味が分かる気がする。 資本主義、文明社会、高い水準の教育、哲学なんかは、時に、本来その人が持つ生命力を剥奪する。 僕らは死にたくないから必死こいて死のリスクを遠ざける社会をこしらえてきたんだろうけど、皮肉なことに、目下に死のリスクが感じられない社会は、僕らの潜在能力を発揮する機会を奪い、自信を身に付ける機会を剥奪する。 こういう事態から身を守るには、文明に浸らず、己の嗅覚を常に研ぎ澄ませ、DNAからの要請に耳を傾け続けることだ。 つまり、こんなんは自然じゃないとか、感覚的におかしいと思うことを重視しろということだ。 文明は万能ではない。アメダスより、雨が降りそうな気がするという気こそを、むしろ尊重して重視するべきだ。 DNAを泣かすなよ。文明に浸り続ける限り、僕らはとことん骨抜きにされてしまう。本当はもっと骨太に生きられるはずなのに。
自分が良く行く川の禁漁期間が迫っている。
そんなに頻繁に出向いているワケではないが(せいぜい年5回くらいか)、一応、堂々と釣れる期間のリミットが迫ると、やはり釣り納めしておきたいと思うのが人情か… 日曜日の夕まずめにでも竿を出し、今年の渓を終えよう。 そして、来年こそは年券を買おう。1260円の日釣り券を毎回買う手間を考えたら、7560円の年券をシーズン初期に買ってしまった方が手間が省けるし、何より、投資した分釣りに行こうと思うはず。 そして、もっと通いつめてポイントや足場の良い入渓場所、駐車スペースを研究していきたい。 この川はとても好きな川だ。穏やかな里川をのんびりと釣り上がるといった趣で。何より、成魚放流が無いので釣り人からの人気が低く(笑)、釣り人でごった返すといった関東近郊の渓事情とも無縁だからだ。 しかし、成魚放流こそないものの、稚魚放流されたヤマメはこの川に育ち、時には尺オーバーまで育った個体とも出会える(らしい)。ここで釣れる魚が皆、ここで育まれたというのも魅力だ。(管釣りから落ちてくる無数の魚もいるだろうが、まぁ、それらは例外として…) とまぁ、かなり好きな川なので、来年はもっと通いつめて、更に魅力を開拓していきたい。 ひとまず、行けたら日曜日にラスト釣行をかましてきたい。 |
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