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もう納豆について語るくらいしか、僕に出来ることはない…などと思っていたが、もうそんなんは沢山。
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春樹の『走ることについて語るときに僕の語ること』を再読している。

故障して走れない今、せめて、走ることに関連する何かに触れたいという無意識なのかもしれない。

しかし、この作品は多くの春樹ファンにとって貴重なものであるように思う。

それは、あの春樹が、一体どういうことを、常日頃考えたり思ったりしているのかということが、かなり垣間見れるからだ。特に、ランナーなら尚更だろう。

僕もそうだし、多分、他のランナーも似たようなものだろうが、基本的に、ランナーは走りたいから走っているのだと思う。走り始めた動機は多様だろうが、突き詰めれば、好きだから走るのだ。やはり、嫌いなことを、人はわざわざ反復しないと思う。つまり、性に合っていて快適だから続くのだ。

春樹もそうだし、僕もそうだった。

僕は、その当時付き合っていた彼女に手荒くフラれたり、就活に真っ直ぐ飛び込めず、これからどう生きるべきかに悩んでいたり、何より体重が73キロにまで増量しており、鏡に写る二重顎に、腹を突き出した醜い自分が情けなかったので走り始めた。当たり前だが、動機は複合的だ。

そして、走り始めて数ヶ月もすれば、彼女のことは過去になり、いわゆる就活をやめる決心が出来たし、勿論、デブはとっくに卒業していたが、それでも、日々走ることは止めなかった。

何故だろうと回顧すると、やはり、走ることが自分にとって心地良かったからだと思う。心地良さについては、何度もこのブログ越しに書いてきた。「無」になれるとか、意識が限りなくゼロになれるみたいな感じで、形を変えて言及してきたが、つまり、そのような感覚を得られることが心地良さであったのだ。

さて、タイトルに戻ると、走ることについて〜の中にいくつもの含蓄のある言葉があるが、目に留まったのはやはりこの一節。

「本当に若い時期を別にすれば、人生にはどうしても優先順位というものが必要になってくる。時間とエネルギーをどのように振り分けていくかという順番作りだ。ある年齢までに、そのようなシステムを自分の中にきっちりこしらえておかないと、人生は焦点を欠いた、めりはりのないものになってしまう」

当たり前っちゃ当たり前だが、その通りだ。

僕はまだ若いが、無邪気に若くも無い。取捨を明らかにするには、もう充分に良い年齢だ。

クソみたいなことをして、若さを浪費してきたが、得てして、若さとは無駄に他ならない。逆に言えば、無駄を通じてしか、自分を満たせそうなモノは分からないのだ。

勿論、何をやってもそれなりに楽しく出来るし、その場を形にする術もある。

しかし、もうそれだけではつまらない。当たり前だ。

月並みだが、取捨選択と集中を常に意識して、やっぱり生きていきたい。

ひとまず足が治ったら、自分がこれから先の人生でも選びたいことの数少ない一つである、「走ること」を存分にやりたい。
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今日は地元の友達と連れ立って名栗まで釣行。

前々から気になっていたポイントで2時間程釣り糸を垂らす。

なかなか良い型も出て、同行したビギナーの友達も、数匹釣り上げることが出来たので良かった。

納竿後は、お湯を作ってコーヒーを飲み、空気を満喫。

秋は確実にその気配を強めている。



感情に支配されるのは当たり前だ。しかし、感情に支配されるのは理性的な人間のすることではない。

マイナスの感情になった場合、ワンクッション理性を挟め。「あぁ、自分は今怒っているんだ」みたいな感じで、感情を客観的に捉える。声にしても良いかもしれない。

そして、例えば、「あぁ、俺は怒っている」→「でも、そこまで怒る必要あるかな?」みたいな感じで感情を検証していき、感情の温度を下げていくのだ。

特に他人のネガティブな感情の威力は時に凄まじい。自分に向けられたら、それはもう大変に迷惑至極である。

しかし、我々は他人からそういった理不尽にも思える仕打ちをされることが常だから、しっかり対処するしかない。

まぁ、やはり理想は柳に風的な感じでいることだ。のらりくらりはやはり賢い戦術で、人様の戦意を挫き、あいつは張り合いが無いからつまらないと思わせることが出来たら思う壺だ。

相手の土俵では戦わないことだ。そりゃ、相手のホームに引き摺りこまれたら、誰だって不利だからだ。だから、挑発に乗らないこと。つまり、人様の感情を真に受けないということだ。

こういうことを書くと、実につまらぬ人間だと思われそうだが、たかだか刹那的な代物である「感情」如きに躍らされて、つまらぬ思いをする方が「つまらぬ」のだから、そこは真剣に対策する余地が多いにある。

何でこんなことをつらつら書いたかと言うと、上の階から聴こえる爆音BGM(しかも、何故か男女混成の合唱)に叩き起こされイラっとしてタバコを吸いにベランダに出たら、子どもを叱りつけるヒステリックな母親の声と、子どもの金切り声が耳に入り辟易した所に、移動図書館のバスが来たことを知らせる大音量なメロディが飛び込んできて、もうほとほとうんざりしていた所に、我がアスペルガー父は今日も不機嫌に動き回り、デカイ声を連発し、自らの存在を主張するためかは知らんが、デカイ物音を立て散らしながら今日も絶好調だし、本当、もう句点がつげないくらいうんざりしたものだから、こんなことを書いてみた次第だ。

しかし、まぁ、もう良い年なんだから、勿論、そんな世界を受け入れて屈しないが。

舐めてもらっちゃ困るぜ。俺は学校の合唱ソングとか虫唾が走る程嫌いだけど、個人の嗜好が多様なことくらい認めているし、音量の適度さも恣意的なモノだろう。俺にとっては不快極まりないが、その人にとっては最適なのだろう。

そして、ヒステリックに子どもを叱りつけたい気持ちも分かる。子どもなんて言うことを基本的に聞かないから、そりゃウザいだろう。尤も、それ込みでガキ作ったのはお前だろうとは思うが、可愛い可愛いばかりではきっといかんだろう。そんな叱り方をする日があっても良い、そして、子どもの気持ちだって分かる。まさにFCを体現することが子どもに他ならないんだから、子どもは実に正しい。

図書館も正しい。そうやってデカイメロディを流さないと気付いてもらえないもんな。土曜日に朝からご苦労様です。僕も本は好きなので、同好を批判する気は毛頭ございません。

そして父、あなたの生い立ちから、あなたがそうならざるを得なかったことを僕は理解しているつもりです。

過度な抑圧と貧困は、さぞかし辛かったことでしょう。それでもそうやって、あなたは自分を諦めなかった。クソ不利な境地から立身出世、それはやはり見事です。その分、置き去りにしてきたことや、バランスに欠けることはむしろ当たり前だと思うので、大丈夫です。

そう、感情に負けるな。ノイズにも負けない。全てを理性で検証し、沸点を下げて処理するのだ。
ああだこうだ言ってきて、色んなことが一周した気がする。

結局、ああだこうだ言うことそのものこそが生きるということに他ならない。

窮地に立てば、その都度救いを求めて七転八倒し、また、何か良いことがあれば生まれてきて良かった、もう最高!とか思い、そして時に何かに腹を立てたりしながら、そうやって生きていくのだ。

答えはいつだって暫定的なモノだ。

僕は感情に常日頃振り回されるが、同時に、感情なんてアテにもしていない。

簡単なことでその景色が変わる代物の一体何を信じれば良いのだ。

そう、感情なんて振り幅の大きい女心のようなモノだ。衝動的かと思えば、実は計算づくで、大胆かと思えば実は繊細だったりね。

つうか、女心も何も、人間なんて皆同じだ。誰しもそりゃ衝動性も計算づくも大胆も繊細も、何もかも全て兼ね備えてるわな。人間わ色んな面があるのは当たり前。巷であいつは◯◯な奴だとかよく言うけど、たまたま、そいつが自分に見せる印象的な面だけをピックアップして、あいつは◯◯な人間だと恣意的に評価しているだけに過ぎない。勿論、逆も然り。

だから、俺は俺すらも信用していないと同時に、めちゃくちゃ信用している。

そう、それで良いんだ。

答えを出さないといけない、◯◯でなければならない、◯◯で在らねばならない、そんなモノは何一つない。

ただ在れば良いのだ。つまり、それでも生きていくということだ。

灰色で良いんだよ。真っ白な奴は多分いないし、真っ黒なだけの奴も多分いない。くすんだ色を纏いながら生きていくことが人間だ。

友達にしても知人にしてもそうだけど、グレーでよろしい。この考え方でいくと、何で付き合ってるのか意味不明になるんだけど、僕はむしろ理由がある方が胡散臭いと思うから、意味なんて分からなくて良い。まぁ少なくとも敵じゃないからってのと、あとは勘だよね。そう、勘を疑うな。それはそれで偏見に過ぎないが立派な答えじゃないか。

そして、その答えを疑う。それで良い。
結局、自分がここからここまでと線引きした範囲だけが世界なのだ。

よって世界は狭いし広いし、多分、無限だ。

大学在学中に、10カ国くらいを旅して回ったが、やはり、行って良かったと思う。何故なら、自分で勝手にこさえた常識に、ほんの少しだけ懐疑的になれたから。

例えば、ラオスに行った際に痛感したことは、確かに、GDPとかGNPからしたらラオスは間違いなく貧しい国に分類されると思うのだけど、そこに根を張り日々を生きる人々は幸せそうであった。

モン族物の人々には、物々交換精神があり、貨幣で回る世界には無い何かがそこにはあった。持ちつ持たれつと言うか、明らかに損をすることは自明なのに、非モン族のラオスの人々は、モン族の人達が作り出したり生産したモノを採算度外視で買い取る姿が散見された。

そんな光景に触れると、どうしても日本と比較してしまう。

お互い様とか持ちつ持たれつとか言った前近代的な交流は今や昔で、結局、貨幣主義と相互不干渉を進展させている(ように感じる)

朝の電車内には希望なんて皆目感じられず、朝なのに、全然元気が無いサラリーマンが、ひたすらうつむいてただ終点までをやり過ごす様は、やはり異常な光景な気もする。例えば、アメリカに行った際には、朝からサラリーマン同士が冗談交じりで喋っていたり、iPodから流れる音楽に身を委ね、ノリノリになっている勤め人を幾人も見た。

その当時は、やっぱりアメリカは陽気でイイな位の感慨しか抱かなかったが、帰国してしばらくすると、その光景こそがふつうなんだと思ったり…

そう、タイトルに戻るが、やはり、知ることを広げていくことは大事だと思う。何も、社会は日本だけじゃない。

とにかく知ることを止めないこと。

さすれば、世界は自ずと広がる。


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