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もう納豆について語るくらいしか、僕に出来ることはない…などと思っていたが、もうそんなんは沢山。
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【自己肯定力を育てることしか救済への道はないと思う】

自分をきちんと愛せないと、人のこともきちんと愛せない。人のことをきちんと愛せないということは、世の中をきちんと愛せないということだ。

「きちんと」って何やねんって話だけど、これは程度の問題かと思う。つまり、「概ね自分=OKだ」という感覚を持っていることが、「きちんと」ってことだ。

ダメな部分も枚挙に暇がないけれど、それも含めて自分はOKだと思える状態。これがつまり、自己愛がきちんとある状態ってことなのかなと思う。

この自己肯定感を持つことは、簡単なようで実はとても難しい。

だから僕達は、生き続けて、「赦し」のプロセスを学ばななければならない。というか、まずは生きないと学びのチャンスがない。

背負っている物事が、自己愛を阻むことは往々にしてあることだ。

しかし、一度背負ってしまった物事は、それはそれとして受け入れて、時間はどれだけかかるか分からないけれど、それらを一つ一つ、下ろせていけたら良いなぁと思う。

そして最終的に、「赦しの境地」=「自己愛の境地」に辿り着けたら良いんじゃないかと思う。

もしかしたら、死後の世界が赦しの境地なのかもな~、何だか元も子もないけれど。

でも、もしそうだとしても、逆説的だが、僕達には生きる意味があると言える。
それは、赦しを得んがために歩き続ける今生自体が、目的になるから。そうだとするなら、ただ生きるだけで、赦しのプロセスを踏まえていることになるんじゃないかと思う。

まぁあまり難しいことを考えずに、まずは生きれば良いのだ。

赦しを求める気持ちは、この巨大な資本主義体制すらを生み出す原動力にすらなった。

プロテスタントが、赦しを得るために為した過度な禁欲が今日の資本主義の起源であるが、つまり、何が言いたいのかと言えば、こんな巨大なシステムを創出してしまうほどに、僕達人間は救いや赦しを希求しているのだ。

数百年前の人間も、似たり寄ったりだったのだ。そう思えば、希望もあるではないか。

皆同じなのだ。皆一緒。

僕達は、救われて赦されたいから生きるのだ。

出来るなら、生きているうちに、自己肯定感をきちんと持ちたいものだが、それがムリでも全然良いんだと思う。死後がある。

そして、何となく予感するのが、結局、死んではじめて、僕達は赦しに包まれるんじゃないかな。

生きているうちは、きっと平静な気持ちになんかなれない気がする。自分をきちんとも愛せないと思う。

何だか何が言いたいのか分からなくなってきたな。

まぁ、生きれば良いんだなとにかく。

僕達一人一人が生きること自体を上回る意味なんて、多分ない。

生きること自体が自己肯定に繋がるよ。今生はムリでも死後にはきっと。
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