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もう納豆について語るくらいしか、僕に出来ることはない…などと思っていたが、もうそんなんは沢山。
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先日のNスペはうつ特集であった。

それを綺麗に要約してくれているサイト→

うつを引き起こすメカニズムとして、扁桃体が耐えず暴走してしまう環境が挙げられる。それは、突き詰めれば不安や緊張といったストレスにさらされ続ける現代社会を意味する。

現代社会は、言わずもがな、ストレスに満ちている。

しかし、原始社会、狩猟社会には、ストレスは勿論あったのだろうが、扁桃体が暴走する程のストレスは無かった模様。皆で狩をして、平等に分け合って暮らす生活には、安寧があったのだろう。

Nスペはこんな感じでまとめていた。

扁桃体を暴走させないためには、原始社会に倣うこと。つまり、

①朝起きて夜は早くに寝るような、原始社会の生活に倣うこと。

②運動をすること(原始社会は、きっと獲物を捕らえるために走り回っていたことだろう)

③地域社会と結びつくこと

④バランスの良い食事

とまぁ、要約したら当たり前なんだけど、僕が近年無意識に求め、実践していた、あるいは、これから実践したいことに全て当てはまる。

朝日を意識的に浴び、ランニングをし、情報過多はストレスになるからSNSやネットからなるべく離れ、過去の嫌なことも反復されるとストレスになるから、なるべく意識しないように工夫し、地域社会に根を張ってゆっくり生きる道を今模索中で、食事はまぁ、実家なんで…文句なくバランス良いし。

僕はきっと、無意識的に自己防衛が出来ていた。無意識が希求する声にきちんと適応していた。

それで良いんだと思う。

僕は、ボロ雑巾のように酷使される、今日の働き方にもかなり疑問があるし、ネットによる繋がり地獄もゴメンだ。自分のことくらい、他の誰でもなく自分で承認する。コントロール出来ないことが多すぎるのなら、コントロール出来る道を選ぶ。なるべく人とは平等に関わる。コミュニティを大切にする。釣りに行って擬似狩猟をする。なるべく獲物を同行者や家族とシェアし、扁桃体を満たす。

それで良い。自信を持って己を生きよう。
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僕達が生きていくために必要なのは、今の文明だと勿論、お金なりお金に替えられる金融商品がまず必要で、それらを使って衣食住に必要な物資を揃えることが求められる。

しかし、お金や物資があっても幸せに直結するかと言えば分からない。

かたや一方、尊厳を尊重されている個人は、幸せだと思う。その人のありのままを、ただ尊重されている個人は、恐らく満たされているはずだ。

自分は自分で良いのだという安心感は、新しい物事に挑戦したり、幸せに生きていくことを躊躇わせない。

そう、尊厳はお金より尊いのだ。

そして、お金で尊厳が買えるかと言えば、それは恐らくNOであろう。

僕は尊厳を尊重し、尊重される関係性の中に生きたい。お金なんかは全然どうでも良い。

色んな人がいて色んな顔をして、色んな価値観が渦巻くこの世界で、とにかく一人一人に対するリスペクトを常に忘れず、僕はこれからも生きていきたい。

こうじゃなきゃダメだとか、こうあるべきだなんて誰が一体決めたのだ?

人の数だけ生き方や境遇がある。

そのことを想像すら出来ない人間になりたくない。

優しい社会などと言ったらリアリストは笑うだろうが、せめて夢想くらいしないことにはまず、何も始まらないし、何も変わらない。

こんな無関心&一面的な価値しか評価対象にならない殺伐とした社会、本当に豊かな社会って言えるかね…?

昨日はやたら濃いような話を、実に多くの初対面の人達と出来て良かった。

学生の時は、毎日こんなような生活をしていたのだが、あの時分はそんな日々に何の有り難みも持たず、空気みたいに当たり前な物だと感じていたけれど、実はかけがえのないディープな時間だったことが、距離が離れる程に分かる。

久しぶりに緑のあるベンチで、観念的な話をし、皆でワインを飲んだ。

無目的な時間というのは一見無為だが、実は無目的な時間などと言うものは存在せず、必ず何かしらの未知領域に触れるものだし、結果的には既知領域が増す。まぁ、突き詰めれば、知るなんて思い込みなんだろうけど。

かくも様々な人がいて、かくも様々な感受性が満ちているこの世界。

コンセンサスを出さないと物事は前には進まないけれど、その民主主義的なやり方は全く万能ではなく、ただの暫定ベストに過ぎない。しかも、あくまでそこにいるメンバーに限るものだ。

しかし、それでも対話する以外に、やはり、相互理解の道は無い気もするから、それでもやっぱり互いに話すより他はない。

正義は無いし、恐らく悪も無い。ただ立場や環境が違うだけ。

そのことを紐解き、そこからまた改めて世界を眺めたい。

少し忙しかったりして、ここの所、あんまり友達と話したり遊んだりしていなかったのだが、昨日今日と久しぶりに友達と会ったり会う予定がある。

まず昨日。NPOのスタッフと色々話し合って、脳と気持ちを引き締め、その後何故か、地元の友達で集まり、その友達の一人を労うためにビールかけをする…何故だかは僕にもよく分からない(笑)しかし、あまりのアホらしさに久しぶりに腹を抱えて笑った気がする。

んで、翌日。厳密に言えば今日か。

久しぶりに大学時代の友達に会う予定。

普段使わない脳でも使ってリフレッシュしたらとの提案を受け、これまた何故か英語しか使わない読書会に参加し、その後、現ミス○○大学と元ミス○○大学が何故か同時に来る集まりがあるから、一緒に飲もうぜという、恐ろしい別のお誘いを受け、かなり躊躇ったものの、やはり気になるので(笑)、少し顔を出す予定もある。

ひとまず、また内に籠らんとする無意識が、最近湧き上がってきているのを自覚していたので、昨日今日は、それを打破せよという良いお告げなのかも。

ひとまず、普段使っていない、脳を使ってみよう。
これが生涯、自分に科せられた業な気がする。

多数派は自分達が正しいと思い込んでいるところが実にタチが悪い。と言うか、ただ思い込んでいる分には良いのだが、彼らは自らの存在が正しいことを確認するために、しばしば少数派をこき下ろす。全くもって無慈悲に。想像力などきっと1ミクロンも無いのだろう。

勿論、全部が全部そうだとは言わない。ただ、傾向と頻度の話だ。

僕はこの想像力の無さにいつだってウンザリしてしまう。世界はもっと広くて多様で、正しいことなんて、そんなもん…多分、存在しないんですよと問い詰めたくなるが、勿論そんな面倒なことはしない。

僕は自分が正しいと思うことしか受け入れられない。そりゃ分かってるけど、やっぱり多数派だから是というお気楽な意思決定を元に、ただそれに無条件に乗っかることが出来ない。

だから、しばしば少数派にならざるを得ないし、孤立もしがちだ。しかし、残念ながら、それは仕方が無いとも諦めている。

僕は、ある程度自己責任はあるにせよ、不登校時代に社会から見捨てられた事実を忘れられない。大人は僕を切り捨てた。社会は僕に居場所を提示しなかった。その事実は、震えるティーンエイジャーにはあまりにも強烈な体験だった。

もう、その時点で僕は壊れちまったんだと思う。何も信じられない、信じるべきは自分しかないと冷たく悟らさせられた。

まぁ、だから何だって話だけど、僕はこの、圧倒的な馴染め無さ、社会に対する違和感、居心地の悪さこそが自分のアイデンティティであると思うので、絶望するこの気持ちこそが、今日も僕が僕であることを知らしめてくれるのだ。



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