もう納豆について語るくらいしか、僕に出来ることはない…などと思っていたが、もうそんなんは沢山。
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
社会的問題の解決とは、突き詰めれば、人間がやることの不完全さを補完することである。
「誰しもがハッピーな社会」、「皆が満足する社会」なんてものは、基本的には桃源郷であり、まずあり得ない。 しかし、そこで諦めたり思考停止してはいけないと思う。 「不完全」だからこそ、修正や是正の余地があり、そして、誰かが先陣を切ってやらないと、永遠にその「不完全」は解決されることはない。 だからこそ、せっかく気付いたのならやる。違和感があったりモヤモヤしたりするんなら、それは改善の余地がある領域であることを、充分に示唆して足るものである。 「不完全さ」をゼロベースにして世の中にコミットすれば、仕事は無数にある。そして、誰しもが誰かしらの「役に立てる」余地がある。 やりがいがないことを続けることはしんどい。 しかし、どんなことにもまた、やりがいを見つけることが出来るのが、人間の強みでもある。 例えば、僕は今日までに無数のバイトをしてきたが、その全ては「やりがい」があった。 コンビニでレジ打ちをしている時も、「日本が誇るコンビニエントの一端を担っている構成員だ」という謎の自負が生まれた。また、ファミレスや居酒屋で働いていた時も、「とりあえず、自分がサーブすることで、顧客のニーズを充足することが出来る」という喜びを覚えた。 また、家庭教師やメンタルフレンドなどは、自分の「これまで」を肯定することに繋がり、大変にやりがいがあった。 少々脱線したが、確かに、どんなことをやっても、それなりの充足感を覚えるが、僕はそこを一歩踏み込えた次元で生きたい。 何故なら、既存の産業なり事業は、「既に何らかのニーズに基づき社会から承認(必要)とされていること」だからだ。 よって、そういった産業なり事業に従事すれば、当然のように「充足感」が得られることは、必然である。 しかし、まだ誰も歩いていない道ならどうだろう。 その道が、「社会から承認(必要)とされている」かどうかも分からない。 しかし、それをやることによって、「現実が、良い方向に転がる」という予感がする場合。 それは未知なる挑戦であるが、恐らく、新しい「既存」を生み出す第一歩になる。 つまり、未知を既知に変える試みこそ、「文明を発達させる」ことであり、知的な存在である我々人間としては、文明を押し上げる一端を担うことは、この上ない喜びをもたらすことは自明である。 不可視だけど、その先には喜びが待っている。 既存することをやっているだけでは到達することのない次元が、そこにはあるのであろう。 PR ![]() ![]() |
カレンダー
フリーエリア
最新コメント
[01/22 納豆太郎]
[01/11 Animepeu]
[05/12 P氏]
[05/08 ✿]
[02/03 orderuclicemi]
最新記事
(12/06)
(07/03)
(06/15)
(05/09)
(04/16)
最新トラックバック
プロフィール
HN:
No Name Ninja
性別:
非公開
ブログ内検索
P R
|