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もう納豆について語るくらいしか、僕に出来ることはない…などと思っていたが、もうそんなんは沢山。
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【良い大人ってどんな人だろう】

良い大人って、どういう大人であろうか。少し考えてみたい。

まず前提として、「大人と子どもは、そもそも相容れないものである」と僕は思う。

大人には守らなければならないことが既に沢山あるし、肉体的な衰えという物理的な問題もある。本人が好き好んでやっているわけではなかろうが、既得権益や利害関係に絡み取られて、がんじがらめにもなっている。

一方その点、子どもは自由だ。何はなくとも、まず、大人と比較して色んなことが自由だし、責任も利害も立場もない。ただ若さだけがあり、言うなれば、真っ白なシャツみたいな存在。
そして、子どもは基本的には大人が嫌いなものだ(笑)

例えば子どもは、世の大人が、いみじく既得権益にしがみついている姿や、説教臭い点が嫌いだ。ああだこうだと世相に文句ばかり呈す割に、何も変えようとしない姿などが軽蔑の対象となるのだろう。

また同様に、大人は子どもが嫌いなはずだ。

何はなくとも、まずその無邪気な若さに大人なら誰しも嫉妬し、そして、「なってない」などと感じてしまうものだ。

自らの立場を正当化するために、持たざる子どもを下に見て、自身の自尊心を満たす。

そして、お決まりの「最近の若者は~」(笑)

こんな調子じゃ、双方の溝は深まるばかりだが、そもそも、相容れないんだとある程度理解しておけば、相互理解の余地はまだある。
さて、では、冒頭に戻って、一体、どのような大人が、理想な大人なのだろうか。

それは、子どもに希望を示せる大人なんじゃないかと思う。

先にも述べたが、双方がそもそも相容れない存在なのだ。だから、大人は、子どもに好かれようとしてもムダだと思うし、そんなに卑屈なことはしなくて良いと思う。逆に、そういう卑屈な姿は、なおのこと嫌悪の対象になる。

だから、大人は堂々としていれば良い。ただし、ただふんぞり返って威張っているだけではダメだろう。

大人には、若さはないかもしれないけれど、知恵がある。

その知恵を子どもに授けられる大人が大人だ。

大人には子どもをガイドする責任があるんじゃないかと思う。子どもが困っている時に、色んな道があることを示せる大人。そんな大人を、きっと子どもだって待っている。借り物じゃない、自分の言葉で喋ること。これも大切だと思う。

また、子どもに希望を示すという点では、自身の存在で示す、という方法もある。

つまり、何で生きる理由も意味も分からないのに、生きて老いて、そして、やがては死ななくてはならないのかと、その宿命を子どもなら誰しも、一度は憤慨する。

そんな折に、「あっ、こういう感じになれるんなら、俺(ワタシ)も、もう少し生きてみても良いかな」、「あっ、大人になることって、そんなに悪いことばかりじゃないのかも」。そんな風に、子どもに延命の希望を与えられる大人、そういう大人になることも大切だと思う。

つまり、知恵と希望を授けられる大人が、子どもにとっては理想、良い大人ということかと思う。

相容れない存在なんだけど、大人には後に続く人達に、授けていく義務があると思う。授けるものは、知恵と希望。後は、子ども達が、勝手に新しい社会を築いていくものだと思う。
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思ったことをツラツラと。脈絡は特にない。ただの思考マップ。

世界を狭くしないコツは、まだ見ぬ領域を常に開拓し続けることである。

ちっさい世界しか知らないのは、あまり良いことではない。それが自分にとっての「世界の基準」になるから。

抽象・具体を問わず、視野や見識を広げることは重要。

凝り固まってるなーと感じる時は要注意。また、極端に不幸だとか不満を感じる場合も要注意だ。

広い世界に目をやったら、今ある悩みなど、一瞬で形骸化してしまうこともある。

「外から自分を見つめる」経験を。

海外なんかに行くと、日本がよく見える。同様に、自分もまた違った角度から眺められる。

これは純粋に、物理的な要因でもある。自分のナワバリから離れてみたら、改めて、自分のナワバリがよく見えることと同じである。渦中において、人はなかなか自分のことが見えない。
だから、意図的に「自分のナワバリから離れる」という機会を持つことは、意義深いことなのかもしれない。

そして、このナワバリと距離を取る機会は、精神的な領域においても同様に大切。何も海外に行かなくても良いし、そもそも、そう頻繁には海外には行けないからね。

自分を見つめる眼差しを、意図的に変えてみる。「いつもの場所」から眺めるのではなく、「ほんの少し違った角度」から眺めてみよう。すると、見え方が異なるはず。

意識しないと状況の多面性を忘れてしまう。色んな側面があって、色んな要因がある。それらが諸々絡み合い「イマ」という多義的な瞬間が作られる。勿論、どの切り口から見ても「イマ」は「イマ」に違いないが、それぞれ異なるニュアンスを持つ。

よって、自分が現在、認識している「イマ」を疑う。

確かに「イマ」は「イマ」だけど、他の「イマ」だってあるのだ。

さて、あまり考え過ぎても、変な堂々巡りにハマりそうなので、このあたりでやめる。
何の気なしに、LDブログ時代のブログを、改めてパラパラと読み返してみた。

率直に言えば…恥ずかしくなった(笑)いやぁ、痛々しいというか何というか、青臭さ全開で、もはや悶絶しながら読む始末…書いている当人がこんな具合だから、読まれていた方には、さぞやご迷惑をかけたことしきりであろう。

しかし、当たり前のことではあるが、「自分」という存在は、過去のいくつもの「自分」の連続体だからね。つまり、過去の「自分」の堆積が、暫定的な今現在の「私」に他ならない。

何だろうな、忘れたくないよね。色んなことを。

例えば、もう22歳当時の自分について、忘れてしまっていることも多い。その当時の心象風景や、悩んでいたことなんかも含めて。同様に23歳、24歳…も以下同じ、やっぱり不思議なモンで、「忘れちゃう」んだよね、人間だもの。

でもね、やっぱり忘れたくない。少なくとも、思い出してはいたいよね。たまには(笑)

例えば、冒頭に述べたように、「自分が恥ずかしい」と感じた理由は、恐らく、その当時の自分と、現在の自分との間に、言うまでもなく距離が出来てしまったからに他ならない。

同じような所をクルクル回っていて、ちっとも前になんて進んでないじゃないか、もープンプン!などと、さとう珠緒のような日々を過ごしていた感覚はあるが、実際には、「螺旋階段論」である。つまり、遅々としながらでも、確実に「上」にはのぼれているのだと思う。もっとも、何が「上」なのかは分からないが、少なくとも、似たような景色は見えるんだけど、見え方が違う。そして、そのことが良いことなのか、悪いことなのかも、僕には分からない。

あるものは損なわれたし、「その瞬間」にしかないようなものも消えた。若さゆえの無邪気さとか、無鉄砲さ、攻撃性も影を潜めたように感じる。センシティブな感覚も磨耗していく一方な気がする。

綿矢りさのデビュー作の中にこんなフレーズがある。
「成長するってことは、世界が狭くなることと同義」
細かい部分は合ってるかは失念したが、確か、こんなニュアンスであったように思う。

いやいや、芥川賞を取るだけのことはある。実際、そういう部分は少なからずある。

世界は確かに、狭くはなった。勿論、まだ知らない世界は無数にあろうが、少なくとも、LDブログ時代の自分に比べたら、はるかに世界は狭まった。そして、それが良いことなのか悪いことなのか分からないが、実際そうだ。

そして、きっと、僕はもっと階段を昇る。

眼下の景色の見え方は、また変遷していくものだろう。

そこに意味があるのかどうかは分からないが、きっと、死ななくて良かったと思えると思う。だから、生きよう。うむ。
また明け方まで寝れず。慢性的に睡眠相が壊れていることもあるけど、ここ最近は、ついつい夜になると、色々と思索しては、神経が昂ぶってしまい、不眠に尚更拍車を駆けています。

さて、ボンヤリした頭で思うこと。

やっぱり僕は「性善説」を信じたい。

生まれついての「悪人」なんて、きっと誰一人いないと思う。

26年間、曲がりなりにも生きてきた。

勿論、悪意に満ちた人やら、怒りがとにかく収まらず、攻撃してくる人。

沢山見てきた。

しかし、そういったパーソナリティーは、やはり、後天的な産物(?)であると思う。

環境や彼ないし彼女達が生きてきた背景に起因する部分が実に大きいと思う。

悪意は裏を返せば、「愛の希求」な気もするし、攻撃性は、「本当は弱い自分を見せまいとする自己防衛だったりする」

あー、こいつら狂ってんな、とか、素直じゃねえんだからとか、頻繁に思うことはあるけれど、きっとその表明的な「彼、ないし彼女」は、きっと、本質的に「悪」ではないと思うんだ。

だから、僕はいとおしくも感じる。

たかだがボタンの掛け違えで、人間なんて誰しも、簡単にそうなる。明日は我が身なのだ。

何だったかな、とにかく、怒りたい奴は、怒りが収まるまで怒り散らすしかないと思うし、深刻なトラウマのある人は、やっぱり、目を背けらんないんだろうから、ゆっくりでも戦うしかないんだと思う。

そう、つまり、誰も悪くなんてないんだよ。

僕だって間違えと黒歴史まみれのみっともない人間だ。

しかし、やり過ごして頑張って生きている。

程度や背景は異なれど、きっとみんな、何とかなるよ。

だから、クソだと思って、悲嘆しながらでも、頑張って生きようよ。

くだらないバカは無視して、自分を慈しもうぜ。

揚げ足取りに専心する俗物とか、人の不幸が三度の飯より好きな奴は、枚挙に暇がないくらいいるけれど、そんな奴らの行く末は、どうせ悲惨極まりないんだろうから、相手にするなよ。
そして、逆説的だが、そんなバカどもも人間なのは忘れちゃいけない。

だから、慈しもう。悪い面ばかり見るなよ。

まぁ、これは全部己に言い聞かせているんだけどね。
どうか皆、暫定的な苦しみを絶対的絶望だなんて思わず、とりあえず生きようよ。
「たましい」を汚してはならないと思う。

随分と、抽象的で且つ、極めて感覚的な物言いだけれど、割と本気でそう思っている。

「たましい」を汚さないためには、「根拠は特にないんだけれど、何となくやらない方が良いと思うこと」を、シンプルにやらないことだと思う。

自分を貶めたり、ヤケクソを喚起するような物事には、極力触れないということだ。

自分だけ綺麗な場所にいて、高見の見物をしたいとか、そういうことではない。
例えば、誰かを辛辣に批判するとか、人の不幸を笑うとか、そういうことをしたくないだけだ。

そういうつまらないことを、したり思ったりした分だけ、僕の「たましい」は確実に汚れる。

だから、僕は人の良い面のみを見、ひたすらに愛を吐き散らかしたいなと思います。

バカだと思われても、僕は「たましい」を汚したくない。


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