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もう納豆について語るくらいしか、僕に出来ることはない…などと思っていたが、もうそんなんは沢山。
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週に一回のメンタルフレンドのバイトを除けば、特にこれと言ったこともせずに、漫然と日々を送っています。

この漫然とする、という状態が大事だったのかなと痛感しています。

日々、強迫観念的に自分を急かし続け過ごした、これまでの大学生活。

いつだって自分の本音なんて蚊帳の外。ただ必要な費用がいつだって目の前にあり、それを支払うためにバイトばっかりした無駄さ加減。時間とお金のホントの浪費。

ふと目覚めて、一人よがりで強行したボランティア。
何だか笑えてくるな。

俺は本来、自分で考えて、納得したこと以外出来ないタイプなのに、全く逆のことばっかりしていた。

必要なのは、ゆとりと自分本位さ。(自己中とはまた異なる)

世の中がどれだけクルクル回ったところで、何もそれに足並みを揃える必要なんてない。

いらないモノは全部捨てちまえ!つまらないことには関わるな!

今必要なのは、タバコとビールと本。たまに音楽があれば、良い。

結局、自分に必要なモンなんて、このくらいしかない。

家族は大事。友達も大事。でも、彼らはまた彼ら。

俺は俺なりに、何とか生きてけば、もうそれで十分だろ。
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今日は北海道時代の友達連中と、レンタカー借りて千葉まで行って来ました。

富津岬やら地獄谷やらを観光。海にも入ったし、美味しい海鮮物を食べ、良い一日だった。

何だろう。空間として、ありのままを受け入れれば良いんじゃないかと思った。
矛盾や嘘や何となくなモノ全てをひっくるめて、空間そのものを、自分なりに楽しめば良い。

はっきり言えば、過去の友達連中は、過去の思い出話以外の話はほとんど合わない。
価値観も興味の対象、人生に対するスタンス、考えてる深さも全く異なる。

だから、大人になった今、彼らと初めて出会ったと過程すると、友達になれていたかは、かなり怪しい。

でも、彼らとは、楽しかった過去の時間だけは共有出来ていた事実があるのだ。
それはつまり、紛れもなく僕の一部であり、僕自身なのだ。つまり、彼らは僕の一部なのだ。

自身の発達段階に於ける、リアルタイムに出会う人達の方が、そりゃリアルタイムな価値はある。

しかし、切った貼ったじゃない。

僕は彼らと過ごした時期があり、昔は心底、心を通わせて、別れる時は泣いた。
それだけで縁になる。

今は例え、昔みたいな感覚では勿論無いけれど、僕は彼らを大事にしたい。

価値や意味や楽しみの探求は、あらゆるベクトルからアプローチ可能だ。

彼らを大事にすることは、自身を大事にすることと同義だ。

リアルタイムに価値や関心があることしか追求しない人生も、何か違う気がする。

腐れ縁や何故か継続している人間関係、そういった、一見、不合理なモンを大事にすることは重要なことだ。人が幸せに生きていく為に必要なモノのは、決して合理性ではないからだ。

それに、僕はどんな集団にいても、必ず疲れ、一人になりたくなる癖があるが、そんなんも含めて、続く関係には縁があんだろうし、終わる関係なら、大した関係じゃないんだろう。
今日夕方、美容院の帰りに手足のしびれを感じ、5分もしないうちに全身が痙攣状態になり、パニック状態に陥って、ドトールで緊急停車。

近くにいた人にSOSを求め、家に連絡してもらい、親に迎えに来てもらった。情けないこと極まりないが、ホントに死ぬんじゃないかと思った。

家に帰って、精神安定剤を飲み、30分くらいして、ようやくパニックと痙攣が治まった。しかし、まだ手足の痺れは残っているが…

ハルシオンと酒を併用してるのが悪かったのか、単に寝不足だったのか、よう分からんが、とりあえず悟った。

人の死なんて多分あっけない。

あれよあれよと言ううちに、ワケ分からんままに死んでしまうもんだ。心の準備もなく。(ガン患者等、ステージがある病気に関しては、また違うのかもしれないけど)。

話を戻すと、一期一会で生きないとやっぱりダメだ。そして、生あるうちに、好きなことやりまくっとかないと。あと、痛感したのが…死に際に、やっぱり家族、あるいは、かけがえのない誰かに手を握ってもらって死にたい。一人で死にいくのなんて、やっぱりゴメンだ。

遺書じゃないけど、俺がもし死んだら、俺のブログ(livedoor時代~今まで)を俺の両親に知らせて欲しい。誰か、お願いします。マジで。

さて、現実的なことに話を戻すと、薬や酒を少し自重しようと思う。命あっての物種だ。死んだら元も子もない。

精神世界を重視し過ぎたことと、従来の中途半端パンク精神が相まって、僕は健康にはマジで無頓着だった。好きなだけタバコを吸って酒を飲んで、生活リズムもめちゃくちゃ。運動はまったくしないし、薬を、その時の状況に応じて、好き勝手アレンジして飲んでるし…

これは警告だったのかもしれない。そろそろ潮時だぞと。残りの夏休み、運動を始めて、タバコの量を減らし、薬と酒を併用せず、とにかく…命を大事にしようと思う。

あと私事だが、最近、エレキギターをやり始めた。

メンタルフレンドで支援してる子(っても22歳だけど)が、ギターがすごい上手くて、昔、彼がバンド組んでた時に、売れる前のFACTやUNCHAIN~、LOWIQなんかと対バンしてたくらいのレベルなので、弾けない曲はないくらいの次元…

一緒に音楽の話をしているうちに、何となく習い始めたギターだけど、想像以上にハマってきたので、良い傾向かなと思ってます。

とにかく、夏休みは好きにしよう。ギターを習い、本読んだり、映画観たり、好きなことだけすりゃ良いじゃん。

就活だとか公務員試験だとか民主党だとかのりぴーだとか9条だとか東名高速の修復だとかルサンチマンだとか思想だとか存在理由だとか使命だとか、もうそういうは良いよ。
関わらない。一回全部忘れたい。

さて、明日早いので、もう寝ます。明日も精一杯生きよう。楽しもう。
心を開いて、気楽に構えれば、生きることはそんなに悪くないことなのかもしれない。
今の与えられた身分でギャーギャー言ったり、塞ぎこんではいけないのかもしれない。

もっと鷹揚に人生を構えないと。最近、視野が狭くなり過ぎていた。

『〇〇すべき』とか『〇〇でなければならない』とか、そう思い込むから人生がつまらなくなる。確かに、人生のある段階では、そういう風にシビアに考えなくてはならない局面はあるだろう。しかし、僕の場合は日常の全てがその考え方だった。そりゃ苦しくもなるわ。

いつだって、『俺はこのままじゃダメだ』、『もっともっと』と常に急かされていたような気がする。

だから、今を楽しめない。全ては『来るべき、楽しい明日』のプロセスにしか感じられないからだ。毎日が修行みたいなもんだ。

しかし、冷静に考えてみろよ。今の自分だって十分じゃないか。そりゃ欠点も至らなさなんて腐るほどあるけれど、みんなそんなもんじゃん。

良いじゃん。別に。なるようにしかならないんだし。
今を生きろよ。今を愛せ。俺だけはいつだって俺の味方でいろよ。俺を愛せ。

そうやって、自分がかけがえのない唯一無二ないとおしい存在であることを自覚出来たら、きっと周りにも優しくなれる。(ホントの意味で)

俺は俺で良い。間違ってない。間違ってるかもしれないけど、それもまたそれ。
自殺願望、無価値感、罪悪感、一日中絶えず続く自責の念と周囲に対する申し訳なさ。

様々な人がこんなクソ野郎を様々なイベントやら遊びに誘ってくれる。

そのこと事態は嬉しいが、心が全くついていかない。行きたいという気になれないし、話もしたくないと思ってしまう。

そして、この?%E:426%#ヤは、実はもう相当長期間(恐らく、16歳~現在)まで続いており、人と会う時はいつも、『その約束をこなす』という感覚でしか、僕は人と関わって来れなかった。
不幸なことだと思う。

そんな感覚でしか人づきあい出来ない原因は、まずは不登校をした期間に作られた歪な自我にあると考えられる。

『ふつう』の?%E:426%#ヤから隔絶されてしまった僕は、自分のアイデンティティを守る為に、切望してやまなかった『ふつう』の?%E:426%#ヤに身を置けない自分を正当化する為に、『ふつう』を否定する。『ふつう』に生きている奴は問題意識の無いバカばっかりだとか、考える力が欠如しているから、奴らは『ふつう』にしていられるんだとか。 

こうして僕は、精神的に孤立を深めていくことになる。
変に外ヅラだけはよくしたいというプライド(=弱い所は見せたくない)のせいで、僕は苦しい精神?%E:426%#ヤを周囲に告白出来なかった。何故なら、周囲の人間には到底理解してもらえないだろうという諦めがあったからだ。それに何より、彼らの無邪気な『おしゃべり』に付き合うのは苦痛で仕方なかった。いつだって早く一人になりたいと思ってたし、解放されたら心底ホッとした。

この悪循環は年々加速していった。

僕は、孤独に苦悶しながらも、自分だけの世界(膨大な読書、古今東西邦洋問わない音楽を聴くこと)を構築していき、ますます、彼らとの心の距離は遠くなった。

しかし、今になって思うのは、俺はもっと人を信じて頼りにするべきだったってこと。

『ふつう』にしている奴らにだって、悩みや苦しみは多かれ少なかれあったろう。共有出来るチャンスがあったのだ。
なのに俺は、一方的に自分を守る為に、彼らを愚かしいバカだと決めつけ、自分を守った。

本当に愚かだったのは、他でもない俺だ。

何をそんなに隠す必要があったんだ。完璧な自分じゃなくたって良かったのに。大体にして、人は完璧な奴なんて嫌いなんだよ。ちょっと欠点があるとか、弱みがある奴の方がみんな好きなんだよ。何故なら、みんなの中にも同じような葛藤があるからなんだよ。

俺は本当にバカだった。

そして、極め付けは、周りをアッと言わせて、人生ひっくり返してやろう(また、ある意味では、優秀だと言われ続けてきた以前の自分に戻る)と画策した、『高学歴化を達成することによる過去の清算計画』である。

しかし、メンタルの不具合を置き去りにして、勉強したところで能率なんて上がるワケもない。精神的に孤立している人間が、無味乾燥な勉強地獄に耐えられるワケがない。

だから、人より時間がかかった。

しかし、結果は一応出た。
この事実だけ見ると良かったことのように映る。

しかし、僕がその間に犠牲にしたことや、精神の不具合を無視し、精神的に孤立して過ごした時間は、確実に僕を修復不可能な程蝕んでいた。

大学に入り直した。当初は楽しかった。忌避しつつも、(実は)切望していた『ふつう』の生活に戻れたのだから。毎日が天国みたいな日々だった。

しかし、長年染み付いた、『ふつう』をバカにする価値観は僕の中に深く根を張っていた。だから、僕は本当の意味での人間関係は構築できていない気がする。
そして、立場的には『ふつう』に戻ったということは、自分が忌み嫌っていた?%E:426%#ヤになるということを意味する。つまり、アイデンティティの危機を迎えたワケである。

また、年齢の問題を意識する余り、周囲に迎合する為に、躁?%E:426%#ヤを維持した結果、躁鬱になる始末…

そして最近は、躁をやる気力が限りなくゼロになってしまい、鬱だけが残った。そしてそれは、修復不可能なレベルにまで損なわれていた。

人とまともに向き合わなかった天罰が下ったんだ。自業自得だ。

書いててバカらしくなってきた。こんなん書いて一体何になるっていうんだよ。
過去は変えられないけど、未来は変えられる。

俺は本当に俺が嫌で嫌で仕方ない。カスだと本気で思う。

まずは鬱病を完治させること。長期の精神的孤立が及ぼした自我形成や、歪は想像以上に根が深いだろう。
でも、なってしまったものは仕方ないのだ。

いつの日か、僕は飾らない自分でいられる日が来れば良いなと思う。ありのままで話せて、ありのままで付き合えて。鬱だとか躁だとかは消え、等身大の自分で世界と繋がりたい。何より、楽しいという感情を取り戻したい。でも、もう戦うのにも疲れ果てた自分がいるのも確か。冒頭に戻るが、限界を感じている。これ以上現世で苦しむくらいなら消えたいとも思う。



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