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もう納豆について語るくらいしか、僕に出来ることはない…などと思っていたが、もうそんなんは沢山。
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怪物と戦う者は自らも怪物とならないように気を付けねばならない。汝が深淵を覗き込んでいるとき、深淵もまた汝を覗き込んでいるのだ。

ニーチェの言葉だ。

様々な解釈があって良さそうな言葉だが、僕は、「自分オタク」になり過ぎると、頭おかしくなりますよと戒めている言葉ではないかと解釈している。

自分オタクになること、つまり、自分を見つめ、掘り下げる作業である。

これは一見、とても良い行為であり、むしろ励行すべき行いとされているイメージさえある。

確かに、自分の内側を掘り下げる行為は必要であろう。

自分と対話しないことには、そもそも、生きる羅針盤が掴めない。

しかし、自分を掘り下げる行為は、一定のところまでに留めておかないと、その人は、というか、僕はやっぱり、「怪物」になってしまうと思うのだ。

ある一定のラインを超えたら、確実に社会性や一般性を喪失してしまう。

掘り下げた先に、「答え」があれば良かろうが、どうせ「答え」などないのだから。
僕の場合、多くの悩みや考えごとを契機として、最後には必ず、「なぜ、私達は生きているのか」、「そもそも、生きる意味は何なのか」という問いに行き着き、そこで足が止まってしまう。

そんなん、誰にも分からないんだから。

考えたところで、絶対的な答えがないのだから、これはもう、考えたところで仕方がないと言える。

やはり、適度なところで、モノを思うことを切り上げ、現実にコミットすることが必要だ。

強いていうなら、「何故、生きるのか」という問いは、結局、社会や関係性の中にしか見出だせないのではないかと思う。

人とコミットし、繋がりを持ち、初めて「自己」、ないし「自我」に、人は気付く。
つまり、他者がいなければ、そもそも「自我」など生まれようもないのだ。

一度、「自我」に目覚めてしまった僕達は、もう他者なしではいられない。

一人では、「自我」が崩壊してしまうように思うからだ。あるいは、他者との関係性のない「自我」に、耐えられなくなってしまうと思う。

さて、結局、何が言いたいのかと言えば、怪物になる前に思考を切り上げ、社会にコミットし、自我を満たすこと。それが恐らくは健全で、狂わない唯一の方法であると思う。

僕には、考える時間は本当に腐るほどあった。

ヒッキー時代からカウントしたら、かれこれ10年はくだらない。

強制的にコミットさせられる社会から外れた自分は、好きなだけ「考えられた」。
これは確かに良かったようにも思うが、やはり、今の自分は、「怪物」になりかけている自覚がある。

それもそうだろう。何の強制力もない時間が比較的多く与えられれば、人は大抵こうなる(と思う)。結局、考える葦だからね、人は。
程よく悩む、なんて馬鹿みたいだが、多分、そうでもしないことには、僕達は狂ってしまうのだろう。

そこで、本題。

僕は、「自我」を持つ社会的存在としての「僕」を意識的に創造していこうと思う。
今の生活は、好きなだけ考える時間がある。その気になれば、あらゆる関係性を持たずに済む。

しかし、そこに浸かりきっていては、本当に危ない。マジで怪物になる。

だから、考えないようにするのだ。自分の機械化(出来るだけ)である。

考えないようにするには、物理的に自由な時間をなくし、エネルギーを外に向ければ良いのだ。

何だか、いつぞやも言った同じようなことの焼直しだが、多分、それがベストなのだ。

睡眠時間を6時間として、余る時間が、18時間。

勉強を8時間して、残りが10時間。ランニングやトレーニングに1時間、食事や雑事に計3時間、などとやっていけば、自由に使える時間は減る。

自分管理のプロにならなければならない。

負のサイクルにハマるパターンも、その原因も分かってきている。何度も失敗しているからだ。

しかし、自分が即時的には解決出来ない問題を抱えていることも分かっている。
つまり、考えることに取り組み過ぎたところで、「現段階の自分では、解決出来ないことを考えること」に生産性などなく、ただいたずらに時間を浪費しているといってもいい。

一日の最後に、ブログをこうやって書く時だけは、考えることを自分に許そう。泣いたって良い。やっぱ死にたいって思っても良い。その時間だけは。

ただ、その時間以外は、徹底的に自分を廃そうと思う。

目の前にあることに意識をフォーカスし、頭なり身体なりを動かす。

余計な観念、素の観念がよぎってきても無視すること。

それに捕まってしまえば、元の木阿弥だ。

一日の中で、「社会的存在な私」としての16時間くらいの時間は、徹底的に、「私」になる。私ではなく「私」。それが偽物だろうが何だろうが、そんなことは関係ない。

目の前のことに打ち込む。
勿論、誠実に。

過去が不誠実だとしても、誠実さも積み重ねていけば良いのだから。ふとよぎるあの邪念に足を掬われて、自暴自棄になることなかれ。

もうこれ以上、時間を汚したくない。未来を汚したくない。

つまらないことを長々と書いた。実につまらない。

もう良いだろう。

これ以上やったら怪物になってしまう。

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連日連夜の忘年会だの新年会だのの波が過ぎて、ようやく今に至る。

新旧様々、(ゴメン、新は無いな)、てか、久しぶりの面々と集まって飲んで思ったのは、色んな社会参加の方法があって、それぞれのやりがいや愚痴もあるということ。

いい歳こいて学生である身分を、嘲りつつも、実の所、ちょっと羨ましがられたりした私は、案外、窮屈な思いなどしたが、迷いは消えた。

過去は変えれないんだから。

4年遅れた事実は、どうあがいたって変えられないし、あれこれ言ってもしゃあない。

んなら、せっかく、足を止めたんなら、それなりの結論を出さなきゃいけない。
まずは、社会と繋がること。

人間、オリジナリティらしきものを追えば追うほど意固地になることは、もう痛いほど良く分かった。てか、痛い。

人と人との間にいて、初めて「個性」だとか「自己」に気付くもんだろう。逆はない。

だから、まずは社会とリンクすること。

自ら、「どこでも良いから就職」という新卒カードを捨てたんだから、そのケツはしっかり持って、それなりの所に収まること。

都庁だろうが、特別区だろうが何でも、もう何でも良い。

それなりの所ならば、それなりの経験が積める。それなりの給与と余暇もあるだろう。

まずは、そこから始めよう。

つまり、自立してナンボ。
ただ、ふつうはココで終わるんだろうが、俺は遠回りしたんだから、これじゃあちょっとつまらない。

やっぱり不登校。俺のテーマ。

せっかく不登校を経て、ここまで来たんだから、何か変えないと。何かしないと。

大それたことじゃなくて良いと思う。器にあった革命をし続けよう。

ボランティアでもNPOでも何でも良い。

とにかく、それを通じて、経験を還元すること。

自分が、不登校の過程を経て、ようやく、「ふつう」だとされている世界に戻るまでの経緯を活かさなきゃ。
これに関しては、経験者じゃなきゃ分からんでしょ。
あの身を引き裂かれるような日々や、人恋しさ、気を付けなくてはいけないことや、社会復帰の仕方…

何の縁があってか知らんが、私はどうにも「ふつう」から逸脱してしまったので、その経験を活かさなきゃね。

別に「ふつう」が良いともスゴイとも思わないけれど、社会は基本的に、「ふつう」であることが前提にないと、なかなか仲間に入れてくれない節がある。

「お前、何か変だから来んなよ」的なね。

それは、誰が悪いとかじゃなくて、そういうもんだから。

結局、数の理屈で、マジョリティが優位になっちゃうけれど、マイノリティも結局、いつまでもソコに甘んじていてはイカンと思うのだ。

その橋渡しなら…少しは、何か役に立てるはず。

大学なり何なりの「ふつう社会」に復帰し、尚且つ、復帰した後のノウハウも、僕は知っている。あくまで、「僕だけの経験値」てしてだが。

しかし、その「僕だけの経験値」は、何か大きなカテゴリーに、抽出可能な部分があろうし、また、していかないとイカンのが、僕のテーマだろう。

何だったかな。まずは、とにかく社会に出ること。出て、自立をすること。

僕は出たことがないから知らんけど、社会のルールや、社会を構成する人に揉まれて、凹まされて、鬱にされて、とにかく、経験を積まないといけない。

その経験値を基に、僕の中にある「ソレ」をやろう。

「ふつう」のルールを知らん奴は、誰にも相手にしてもらえない。

だから、まずは学ばせてもらおう。

それなら、やることは自ずと見えるでしょって話。

多少、辛い時期(今も辛いが)はあろうが、そこは越えていけよ、今までみたいに。何も特別なことでもない。

そういう2011年にしていこうや。
大掃除をし忘れたから、大掃除をした。

初詣や忘年会はした割に、大掃除をすることを忘れていたからだ。

ちなみに、書いていて思い出したが、蕎麦も食べていない気がする。まぁ、来年、そばを「替え玉」すれば問題ないか。

さて、くだらない話はさておき、大掃除をしていたら、昔使っていた携帯や日記が出てきた。

しばし、時間を忘れて見入る。

すると、どうだろう、未来に対する希望らしきものが芽生える不思議。

「あの頃は、こんなことで悩んでいたんだ」

とか、

「あの頃は、そんな風にしなきゃ、自分を守れなかったんだ」

とか。

今現在の自分が、過去を振り返り、そのように思うということは、もう既に、「それら」を乗り越えた証拠である。

あの頃は、「それら」で思い詰めて、死ぬことまで考えていたが、今にして思えば、そんなことで死んでしまっては、救いがない。今の自分が悲しむ。

要はそういうこと。

月並みだけど、時は色んなことを溶解させ、風化させる。当時の悩みと「距離」が出来るから、色んなことを相対化できる。

それが大人になること、などとは思わないが、要は、人生つまり、「距離を取ること」なのであろう。

「今この瞬間」は、確実に、死で以てチャラにするには、あまりに惜しく、また、死を選ばずとも、必ず解決に近い感情を、いずれは得られるものなのだ。

だから、死ぬなよ、自分。
この記事だって、いつか苦笑いしながら見れる日が来るんだから。

自ずと死ぬこたぁない。

課題は見えている。

本心があるんだが、理性がそれを邪魔する。それがフラストレーションになる。そして、どんどん本心から遠ざかる現実が形成されていく。

見えているんだから、即解決と言うワケにもいかない。

早急さを求めては、良い結果を招かないだろう。

ただ、気付いてはいるのだ。

だから、少しずつ、ほんの少しずつでも良いから、変えていけば良いのだ。

その意識さえあれば、いつかは必ず救済された自分がいるはず。

今まで棚上げにしてきたり、ごまかしてきたことは、結局全部自分に返ってくる。

これは真理だ。その場で、どれだけ取り繕って、一見、上手くいっているように見えても、それは結局、嘘だ。嘘は必ず自分を損なう。

僕は、棚上げしてきたことや、ごまかしたり嘘を付いたことが、いくつかある。
そして、そのしっぺ返しを今食らっている。

自分が蒔いた種ではあるが、若さ故の無知が引き起こした、致し方ない部分もある。

だから、自分を責め過ぎてはいけないし、何より、過去は変えられないのだ。

もう何回同じことを言っているのか分からないが、未来は変えられる。

気付いているし、そのことで苦しんでもいる。

いつかは溶ける日がくるよね。

そう信じるしかない。

またラリって寒い記事を書いてしまった。

中島らもから言わせたら、こんなんラリったうちには入らないだろうけど、体質的な問題もあるのか、ハルシオンを飲むと大体飛んでしまう。

今年を総括すると、何だろうか、とりあえず、ムチャクチャひどかった気もするが、それほど悪くはなかった気もまたする。

ただ、今後の自分にとって、大きな転機になった年であったことは確かだ。

今まで蓋をしていたことが吹き出したり、溜まっていたものが溢れ出したからだ。

だから、苦しいは苦しかったけれど(今も苦しいが)、きっと、いつかは向き合わなければならなかったのだ。それが、たまたま今年であっただけだ。

ここを乗り越えたら、もっと大きく強くなれる。これは、俺に課せられた試練だ。きっと、意味がある苦しみだ。

今の自分には、明確な羅針盤もなく、過去の航路に懐疑的なこと甚だしいが、それは仕方がない。

苦しむだけ苦しもうと思う。

その先にある、嘘のない自分のために。



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