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もう納豆について語るくらいしか、僕に出来ることはない…などと思っていたが、もうそんなんは沢山。
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社会復帰は順調です。

まぁ、遅々としたマイペースでの範囲でしかないんだけれど。

とりあえず、ランニングと筋トレを再開し、勉強も3時間くらいから再スタートする生活に戻した。

溜りに溜めたメールも返したし、電話もいくつもした。

ホントに嬉しかったのが、僕は糾弾されると怯えていた部分があったのに、皆、ただ心配をしてくれていたこと、そして何より、糾弾どころか、佑太と話せなかったから俺もキツかったよ、なんて言ってくれる奴もいたり。

涙が止まらなかった。

俺は、良い仲間がいることを、すっかり忘れていた。
卑屈になってたから、もう何もかもチャラにしたかったけど、少なくとも、心配してくれる友達がいるんだ。

何たる贅沢者だよ。何に怯えてたんだか。

でも、次からは、僕は自らしたい企画を思い付いたら自分から発信しようと思う。

誘われてる約束に乗っかりまくるのも充分楽しいんだけど、本質的に、それは主体性を欠く。

だから、もっと自分から行こうと思う。

楽しさの枝を派生させていくのだ。

とりあえず、皆、ありがとう。

年末は、昨日が地元の(まともメンツ)忘年会、今日はまた別の地元メンツと忘年会。明後日は、石井と石川さんと忘年会。年を明けたら、クラスの友達新年会と、北海道時代の新年会。
疲れないか心配だが、リハビリでもある。

少しでも主体性を持って且つ、皆の話を心で聞きたい。

馴れ合いの酒でお茶(酒?)を濁すこと、年齢的に容易いんだが、俺は皆の声が聞きたいんだ、心のね。

俺は今はダメな奴だと思うけど、そこでは終わりたくない。

だから、最近、マイナスサイクル(観念)に教われたら、いつも以下の文を付け加えている

「確かに俺は、過去や今はカスだったけど、未来は変えられると」

月並みかもしれないけど、この反語的な思い込みは、実際大事。悪くない。
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さすがにこのままではヤバイ。生活を立て直そう。

良くも悪くも、まぁ、そう思えるだけの気力が回復したのであろう。

とりあえず、良い循環を作ること。

では、良い循環とは果たして何なのか。

思い付くままに書き出してみよう。

①負のサイクルに飲み込まれないこと

ともすれば、ああでもないこうでもないと、自己嫌悪や罪悪感に苛まれてしまう。そのサイクルに飲み込まれたら、足が止まってしまう。何も出来なくなる。よって、このサイクルに飲み込まれなくする工夫が必要だ。あるいは、飲み込まれても、うまく逃げ切る方法が。

具体的には、自信を積み重ねること。自己卑下を上回るように、「自分に自信が持てること」を積み重ねていくしかない。例えばそれは、継続的なランニングや勉強、逃げないコミュニケーションなどである。

②良かった時のサイクルを継続すること

今にして思い返せば、ランニングをやり始めた5月~10月あたりは、調子が良かったように思う。色々、悩みは尽きなかったが、何だろう、それは、「上質な悩み」であった気がする。つまり、ある程度の自尊心がある状態で悩む「悩み」とでも言おうか。極めて根源的なものであったように思う。

さて、話を戻すと、継続的な運動は、心身に良いサイクルをもたらした。ダイエットとしての効果は勿論、体力もついたし、何より、自信がついた。その自信は、継続的に物事をやり続けたことによる、プライドの堆積であった。

結果的に、ランニングから筋トレや、勉強、日常生活を楽しむことにも派生し、物事は、概ね上手く回っていた。

このサイクルを壊したことはデカイ。

また、薬を飲むのをやめたのも大きいだろう。

10月あたりに、「そろそろ大丈夫なんじゃないか」と、自己判断で、スパッと服薬をやめてしまったのが良くなかった。

みるみるうちに、調子が悪くなった。

つまり、まだまだ残念ながら、薬なしでは耐えられるほどには、心は回復していないのだろう。

服薬を中止して、あっという間に負のサイクルに飲み込まれ、深みにハマっていった。

また、カウンセリングをやめてしまったことも大きいだろう。

月に一回、2~3時間ほど、カウンセリングに行っていたのだが、実は、この習慣にもかなり救われていたのだろう。

何となく、自分と向き合うのが億劫になってやめてしまったが、向き合い続けて良かったのだ。少なくとも、話をして悩みなり何なりを言語化し、それに対する何らかのミラーリングがあったことは、非常に大切な時間であったのだ。

つまり、まとめると、良いサイクルは、三点に抽出される。

①運動②服薬③カウンセリングである。

他に良い方法を知らないが、少なくとも、今の自分にとって、考えられ得る最善のサイクルはこのサイクルである。

これを回し続けていこう。
③灰色の自分を認め、1でも2でも良いから、アクションすること

言うても自分は、灰色が、どうにも認められないようだ。

もう、これは仕方がないのかもしれない。

綺麗でいたい、純粋でいたいなんて、究極のエゴ且つ、勘違いなのかもしれないけれど、そう思ってんだから仕方がない。

ただ、すぐには綺麗になれないし、いつかは綺麗になれるとも限らない。

ただ、可能性はあるのだ。
前にも書いたけど、生き続ける限り、何事もチャンスはあるし、逆に言えば、死んだら全ての機会を喪失する。

僕は、死にまつわる苦痛自体は、嫌だけど、さして怖いとは思わないが、色んなことを中途半端にして死にたくない。

生ある限り、悪いことしたなぁと思うことに関しては、極力正したいと思うし、誰かを傷つけたことに関しても、きちんとその分を苦しみたいと考えている。

それが、中途半端な形で終わる方が怖い。

何の話だったか、そうそう、つまり、暫定的には灰色であることは仕方ないと、一応、認め、灰色な自分をベースに物事に向き合うことが必要なのだ。

俺は灰色だから、もう何もしたくない、とか、何も出来ないとか何かをする資格がないとか考えずに、「確かに灰色、ある部分は黒いかもしれんけど、未来は何色にでもなりますよ」的な発想を忘れてはいけない。
だから、今や未来に対してまで、卑屈な態度を取ってはいかん。

ますますドツボにハマって、若年性のガンかアル中にでもなって死ぬのがオチだろうから。

具体的には、人や物事に対して、卑屈にならないこと。今の自分が出来るベストで向き合うこと。

④周りをうまく頼る

これは本当に下手くそだと思う。

自分が苦しかったり辛いことを、僕は上手く人に言えないのだ。

ブログでは散々言ってるけど、所詮はブログである。
ネットの世界越しのコミュニケーションである。

対面でないコミュニケーションは、やはり、人類にとって、コミュニケーションだと感じるには、日が浅いと思う。

つまり、まだ対面式のアナログコミュニケーションの方が実感があるのだ。

よって、僕は勇気を出して、対面する人に「自分」を晒さないといけないだろう。
理屈でも経験則でもよく分かっている。

きちんと自分を晒した分だけ、相手からも同じくらいの量の「晒し返し」があることを。

そして、少なくとも僕は、そういう瞬間に救われる。ああ、生きてて良かったなぁなどとも感じる。

また、人はそんなに、少なくとも僕は、強いだけの人や、ハリボテしてる人は苦手である。

根っから強い人は、弱者の気持ちなど知る術もなかろうから、まぁこれは論外として、本当は弱くて震えそうな自分がいんのに、それを隠すためにツンツンしまくっている人は苦手だ。

「あぁ、素直になりゃ楽なのに」などと端から見て思うが、自分がそう思うってことは、自分がきっとそうだからだ。

まぁ、全面解放すんのは無理だし、逆にキツい部分もあろうから、要は上手になる必要があるんだと思う。
今ある型を、少しずつ拡げて拡げてってイメージか。
上手いベン図のバランスを見つけるのだ。

④強制森田療法

単調で単純な作業は、人間の心身に実は大きく作用する。

単純作業をあなどってはいけない。

掃除、アイロンがけ、何でも良い。

気が塞いだら、何か一つ、これと思う作業を見つけてやろう。

結果的に、清潔も保てるし、良いことである、多分。
⑤捌け口のチャネルを複数持つ

何でも良い。マイナスのサイクルに囚われても、いかにそこから逃れる、あるいは、発散出来るチャネルを持てるか。これは大事なことだ。

ここに出てくるのが、音楽や映画、読書や料理だ。

ポイントは、抽象概念から逃れること。具体的な世界に、いかに逃れ、また、意識を具体的な場所にフォーカス出来るかにあると思う。

いやいやでも、映画を観たら意識は次第に、映画の世界に入ろう。

また、音が鳴っていたら、煩わしさはやがて、心地良さにもなるかもしれない。
読書も良い。

自然のある場所にでも行って、なるべく没頭してみること。

全面的ではないにしろ、次第に、物語の世界に没入出来るはずだ。

とにかく、煮詰まったら、全く違うことをしたり、環境を変えること。意識を拡散させること。

確かに逃避かもしれないが、落ち込みサイクルに捕まるよりマシだ。僕はもう十分考えた。すぐには解決しなかったり、既に消せないこともある。だから、考えたところで、ムダな部分もある。

それなら、ムダなことをするよりかは、建設的なことをしようじゃないか。

勿論、うまくいかないかもしれない。

ただ、うまくいく可能性もある。

だったら、可能性に賭ける方がまともだし健全だ。

さて、ああだこぅだ言ってきたが、また振り出しだ。
イチからやり直そう。

次はきっと、少なくとも、前よりは、少しうまくやれる。

てなワケで、早速今日からランニングと筋トレを再開した。

溜まったメールやら電話も、少しずつ返していこう。
出来たら、少し素直に。
大変恐ろしい事実だが、明日はクリスマスイブである。

12月2日にこっちに戻って来てから20日以上、僕は特に何もしていない。いや、出来なかった。

ただ寝て起きて寝てを繰り返していただけだ。

すっかりもぬけの殻で、何一つ生産的なことをしていない。

たまに調子が良い日に、まとめて本を買いに行ったり、DVDやCDを借りに行くものの、何一つ見ることも聞くこともなく、ただ日々を無為にしている。

携帯電話も放りっぱなしだ。

こんな自分にも用のある人が少なからずいることは嬉しいんだけど、僕はそれに応えることが出来ない。

家族の団欒の声が虚しい。
その輪に加わっても何だか卑屈になってしまい、早々に席を外す。

部屋で独り聞く、団欒の嬌声が孤独を深める。

酒ばかり飲んでいる。

不味い。

オヤジが稼いで、その金で買った酒だ。

飲ましてもらってんのに、そんなこと言う資格はないんだけれど、不味い。

自信が何もない。

光をどこに求めれば良いのか分からない。

それでも認知療法など試みてみるが、馬鹿馬鹿しくなってすぐにやめてしまう。
医者に行っても馬鹿馬鹿しい。

どうしたいんですかと聞かれても、何も言えない。

そして医者をまたたらい回しにされる。

調剤薬局のオニーチャンが投げ掛ける、その後、お変わりありませんかと。

お変わりはない。目を伏せる。

体重が5キロ以上増えた。

あのランニングの日々は何だったんだろう。

勉強もしてない。

あのストイックな日々は何だったんだろう。

なんて、ごちゃごちゃ言っても仕方がないから、俺はプラスの言葉しか吐かないことに決めた。

運が逃げていく気がする。
嘘でも良いからプラス思考だ。

ありがとう、ラッキー、ツイてる、俺は出来る、悪くない。

弱気と卑屈の虫は、一回気を許すと、あっという間に自分を蝕む。

何を弱気になっているんだ。

何で卑屈にならなきゃいけねえんだ。

くだらない奴の言葉をいつまでも引き摺ったり、くだらない出来事で人生棒に振る気かよ。

マジで、そういうのってないぜ。

そうだろう。

くだらないモンが追い付かない速度で生きろよ。

俺はくだらないモンに足を絡め取られて自堕落になりたくない。

過去は過去。現在は現在。
過去の堆積は、確かに現在の自己だが、必ずしも、過去の堆積を反映させて現在を生きなくてはならないなんて、誰が言った。

現在は現在。真っ白な現在があるじゃないか。

それを真っ黒やまだらにして塗りつぶしているのは、紛れもなく僕だ。
課題が見えた。

自分に対する自信を取り戻すこと、これに尽きる。

昨年を振り返ると、自信を喪失するようなことがいくつもあった。それも相次いで。

恐らく、一つ失敗をして、現状の自分や、自分が持っているもの、やってきたこと全てを疑うようになり、バランスを崩して、なし崩し的に負の連鎖が起きて立ち直れなくなった、という感じである。

自分に自信がなくなると、当然、自閉的になるし、卑屈にもなる。希望は持てないし、周囲に対して引け目も感じる。

最近、人前に出るのが怖い。
リアルに。コンビニの店員とかにさえ、目を合わしていない気がする。俺を見ないで、話しかけないでと思ってしまう。いよいよやべぇな、俺も。

しかし、いつまでもしょげてても仕方がない。しょげない自分になりたいなら、やっぱり、自信を取り戻すしか方法はないだろう。

これがテーマ。

全部、音を立てて崩れ、空っぽ、何にもないと思ってしまうが、きっと、それは錯覚。

弱っている自分が見せている幻だ。

世界は、自分の心次第。

心の状態に応じた世界を見せるものだと思う。

とんでもなくひどい世界にしか見えない今は、とんでもなくひどい心理状態であるだろうことは認めざるを得ない。

自分を受け入れること。

自分を愛すること。

自分の人生を愛すること。
これが出来ない奴は、きっと、誰のことも愛せない。
感覚的にそう思う。

そして、上記した三つは死ぬほど難しい。

しかし、出発点もまた、そこからしかないように思う。

僕の人生に何か意味があるから、きっと、今、僕はこんな状態になってしまったんだと思う。

学ばなくてはならない。

等身大を晒して、自分らしく生きることを。

何事も、そう簡単に結論は出ない。

何故なら、僕たち人間は、頭でっかちな有機体であるからだ。

心や身体にまで、頭は介入してくる。

心が欲することを、頭がコントロールする。

つまり、この理性の力と、心の望むこと、さらには、人間=一動物として捉えた上で、身体の本来性を活かすという各々バラバラなことを、いかにして矛盾なく繋げるかということが大切である。

矛盾なく繋げるためには、頭で処理してはダメだろう。

頭は、ともすれば、mustやshouldしか言わないからだ。

常に、欲求やら何やらを、このmust、should攻撃で抑え込もうとする。

それが人間だと言ってしまえばそれまでだが、俺はこれでは苦しい。

心が欲することがあって、身体が欲することもある。
何で、頭ばかり優先して、心と身体は、いつもなおざりにされるのか。

そりゃ鬱にもなるわ。

具体的な事柄に当てはめたら、心はイライラや不満を感じているにも関わらず、理性が私にキレたり爆発することを制御する。「社会的にマズいですよ」とか何とか言いながら。

それで結果的に、私は涼しい表情を装うが、フラストレーションは処理されたワケでもないから、それが葛藤になる。蓄積する。

身体と理性の関係もそうだ。

ホントなら、もっと駆け回ったり、決闘したりしたいんだと思う。動物としての人間である「私」の中に、DNAとして刷り込まれているから。

しかし、理性は、自由に駆け回ることや、決闘を否定する。「場所をわきまえなさい」だの、「良い歳こいて何が決闘だ。捕まりたいのか?」なんて言いながらね。

これも葛藤を生む。

しかし、全面的に理性を否定することなどは、もはや出来ない。

この高度に洗練された、情報化&スーパーマニュアル化社会においては。

去勢されないと、そのコミュニティには参加出来ないからだ。

しかし、理性に全て支配されるのは癪だ。と言うより、そのやり方じゃ、もういい加減しんどいでしょ?ってことに気付いてしまったからだ。

心の声や、身体の疼きを無視してはならない。

理性支配型コントロールから脱け出さないと、鬱も治らないし、一生籠の中の鳥だよ。

主体を取り戻すには、まずはそこから。

全面的に理性に勝とうとか、そういうことじゃなく、理性優位の状況を認識し、それを意識すること。

何をするにあたっても、確認することだ。

これの出どころは、理性?心?と。

意識するだけでも、少しは違うだろう。

少なくとも、理性優位主義は、自分を幸福にしないことを、改めて噛みしめることだ。


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